私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 講演会(フェリス・フェスティバル '83)(1983)(2)

 映画の場合当然だけれども、面白いか面白くないかということで判断するんですね。でも人間の事実の中ですばらしいけど面白くないものってものも、ものすごくあるわけですね。面白くないものは省いてしまう、描写できないってふうになっている。それから、ストーリーを求めるということですね。ストーリーっていうのは、例えばここで僕がこういう話をしますでしょ。そうすると話が非常に断片ばっかりで収拾がつかないまんま終るとね、なんとなく気に入らない。一つのストーリーがあって、起承転結があって流れがあると納得するというかな。そういうふうなストーリー主義からはみでるようなものは駄目である。今の映画というものは大半はそうだと思うんです。そのために事実というものを捉え損なっている。本当の事実というのは普遍性とか共通性とかから離れてしまうものが沢山あるわけですね。

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山田太一 講演会(フェリス・フェスティバル '83)(1983)(1)

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 脚本家の山田太一先生が代表作のテレビ『早春スケッチブック』と『ふぞろいの林檎たち』を相次いで送り出した1983年に、フェリス女学院大学にて講演を行った(1983 年11月3日)。その記録を入手したので、以下に引用したい。用字・用語は可能な限り統一し、明らかな誤字は訂正した。

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別役実「プロセニアムアーチへの回帰」(1971) (2)

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 その小さな一本の木と同様、そこに登場するものも、「生身の役者」であれ、劇世界の規定する特定の「登場人物」であれ、どちらでもよい。あくまでも、それの対応しようとしているものが無限の、そして無性格な空間である限り、それは自由なのである。或いは、ベケット空間に於ては、それを「役者」であり「登場人物」であるべく、同時的に肯定するゆとりを持っている、と言う事だろうか。もっとも、それらを含む生活空間は、近代劇空間に於ける生活空間がその三方の壁が規定する性格づけられた空間に対応するように、「無限の無性格な空間」に対応しているのではない。その対応しようとしているものが「無限の、そして無性格な空間」である限り、それはあくまでも「対応しようとしている」に過ぎないからである。従ってそれは、永遠に過渡的であり「相殺されて零」と言う決着は、遂にやってこないのである。

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別役実「プロセニアムアーチへの回帰」(1971)(1)

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 今年3月に逝去した別役実は、サミュエル・ベケット的な不条理演劇を日本で成立させた巨匠である。その別役が自らの理念について述べた1971年の文章を、追悼として以下に引用したい。

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