私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 トークショー “生きがい探しシンポジウム”(1992)(1)

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 1992年3月15日、財団法人長寿社会開発センター朝日新聞社の主催で“生きがい探しシンポジウム50歳からの選択”が開催された。

 パネルディスカッションには福田繁雄山田太一下村満子山口昌男が出席しており、その模様は冊子にまとめられている。長いので、山田氏の発言に絞って以下に引用したい。

 冊子の冒頭には「これから定年を迎えられようとする方々には、ぜひ職場のプロから人生のプロとして、生きがいにあふれた第二の人生を創造していただきたいと思います」などと書かれているが、その趣旨?とは異なる主張を山田氏は述べていて面白い(用字・用語は、可能な限り統一した)。 

月日の残像(新潮文庫)

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 正しいと思っても、そのようにできない人もいます。老後を燃焼しろと言っても、どうも燃焼できないという人もいるわけですね。

 ちょっと脇道にそれますが、福田さんと同じで、私も日曜日というのはとても大事なときで、電話がかかってこないので、仕事をすごくやれるんです。そういうときに、どっかの編集の人とかから電話がかかってきて、「お休みのところをすみませんが」と言うんですね。一生懸命にやっているときに何がお休みだと思って、一瞬、ウッとなったりするけど、まあ、そんなわけでサラリーマンの方の気持ちをよくわからないのかもしれません。

 しかし例えば、ウィークデーの十時ごろデパートに行ったりすると、六〇歳前後の男の人が随分、一人でいるんですよ。僕のほうも何か探しながら歩いているから、何度もすれ違って困っちゃう。それから、展覧会なんかに行っても、いるわけですよね。僕は、そういうのはなんだかとってもよくわかる。そういう人に身を寄せたいような気持ちがあります。

 ニ~三年前ですが、老後を外国で過ごそうというので、オーストラリアのシドニーやバースにお家をお買いになって、ご夫婦でお住みになっている方たちを五〇組ぐらい取材したことがあるんですよ。日本人です。大体のパターンとしては、取締役であろうと何であろうと、そこに行っちゃったらそんなことは意味がないから忘れるという生き方ですよね。そして、奥さんは大体、活気づいて元気なわけです。英語なんかも亭主よりうまくなっていく。パーティをやろうとか言って、日本人だけにせよ、みんな知り合いが集まってくる。そうして、自分のテリトリーじゃない人たちがわっと来ると、お父さんはやっぱり社交下手なんですね。どういう人とでも対応していた喫茶店のご主人だったというような方が中心人物になっちゃうんです。かつてどこどこの頭取だったとか、取締役だったとかという人が、みじめに隅のほうに座ってらっしゃる。職業とか肩書がなくなってしまうと、本当の人格がそこにあって、それが試されているんだというふうになってきちゃうんです。

 僕はそれに義憤を感じました。こういうところでも、生きがいというと、好奇心を持つこと、友達をたくさんつくること、明るくなること、いろんなことを試すこととかという基準がつくられがちですよね。そういう基準は小さいときにもつくられて、青年期でもつくられ、中年期でもつくられたんです。なぜかというと、経済原則の中で生きてるから、わりと社会の価値観に従わなきゃ生きていけないところがあるから、その要求になるべく沿おうと思うわけです。ですから、日本社会の平均的基準に合わせ、あまり突出しない、人づき合いのいい人になろうとかということでずっと生きてきたと思うんです。

 それが退職して、年金とかいろいろな蓄えとかでそれほど経済的に縛られなくなったときは、基準から外れる自由を初めて手に入れる時期だと思うんですよ。そのときに、なおかつ基準づくりをしてはいけないと思うんです。明るくなきゃいけないとか、人とつき合えとか、出来ないと人格的に劣っているように見られるとか…。

 

(中略)

 

 青年というのは、自分に対しての不安が老年よりも強いから、身構えて、ある基準を満たそうとして頑張るし、可能性を非常に高い位置に置くのもいいけれども、もう五〇歳を過ぎてくると、どの時期を考えたって、そんなに生きがいに満ち満ちているときはなかったと思うんだな。まあ、ある時期はありますよ、大抵の人はきっと。でも、ずっとつながって、生きがいがぎっちりある人生なんてのは、あんまりないわけですよね。相当に恵まれた人生じゃないと。ですから、老後にやたら生きがいがあるなんてことを期待することが、大変おかしいわけですね。つづく

  

 以上、「生きがい探しシンポジウム 50歳からの選択」より引用。 

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