私の中の見えない炎

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蓮實重彦 トークショー “ハリウッド映画史講義” レポート・『拳銃魔』(1)

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 昨年12月から今年1月にかけて蓮實重彦氏のセレクトによるアメリB級映画特集が行われ、1月に『拳銃魔』(1953)の上映と氏のトークがあった。割と四方山話という印象で、『拳銃魔』についての言及はなかったが…(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。 

 本日は興奮しております。過度に興奮していると言っていいかもしれません。まだ七草以前だというのに、これほどたくさんの方々が私の『拳銃魔』を見に来てくれた、という興奮ではありません。某SF作家が、私の講義録を読まれて新年から爆笑して“ウディ・アレンのようなコメディアンだ”というふうに私のことを言われたことに興奮しているわけでもありません(一同笑)。三が日をかけましてゴダールの新作『イメージの本』(2018)を朝から晩まで見てしまったことの興奮なのであります。その興奮ぶりは、判ったという瞬間が一瞬もないことによるものであって、何度見ても判らない。ことによったらこういう書物を読めば判るのかな、というものを読んでみても判らない。ただ見たことを言いふらさずにはおかれない気持ちになってしまう。その興奮が私を捕らえておりますので、果たしてこれから『拳銃魔』までたどり着けるのか、不安な気持ちにもなってしまいます。

 判ったようでちっとも判らないものが、映画には存在しております。フィルム的フィクションを語るにあたって、どれだけの時間をかけるかというのは、決定的に決まっていることではないわけです。いずれも相対的なものでしかない。にもかかわらず、この映画にはこの上映時間しかないとぴたりと当たる数字がある。64から99分までいろいろあるわけですが、90分を越えたらB級映画ではなくて、他の名前で呼ばれます。90分を越えたもののほとんどは、フィルムノワールと考えていいものであります。

 50年代の映画作家について語る場合には、制作会社や制作者、脚本家もそれぞれに大きな意味を持っています。『モスクワへの密使』(1943)はワーナーブラザーズという会社がアメリカの民主党政権と近くて、政権の誘いを受けてつくった。いろいろ問題になって、赤狩りでも非難された。そういう、それぞれの会社の特徴があります。ハリウッドの映画会社は50年代に崩壊するわけですが、その残照が残っていたとしますと、MGMは絢爛豪華で、アルドリッチロバート・アルドリッチ)の『ビッグ・リーガー』(1953)などがありますけど、一応絢爛豪華が画面上の特徴です。ワーナーブラザーズは政治がかった暗さがあり、画面も暗く、題材も暗い。『モスクワへの密使』もそうですけど、同じ監督の『カサブランカ』もつややかな明るさというのは違ったものが描かれている。RKOは先進的なところがあるわけです。バルルートンを使ってホラー物をつくったり、オーソン・ウェルズに『市民ケーン』(1941)をつくらせたり、そういう新鮮さ。パナマウントというと都会的で瀟洒で粋な感じがいたしますし、リパブリックというと二流の西部劇会社と言われる。しかしリパブリックは1950年代の中ごろから年に1度くらいは一流の映画をつくらなければいけないということで、例えばジョン・フォードの『リオ・グランデの砦』(1951)のようなものをつくり、『静かなる男』(1952)でオスカーをもらっています。ユニバーサルも二流会社と思っていますので、ユニバーサルスタジオなどというところには間違っても足を踏み入れたりしませんが(一同笑)、このころちょっとした変化が出てきます。都会的なコメディーで活躍していたジェームス・スチュアートがカウボーイをやらされるというアンソニー・マンの西部劇によって、若干A級的な趣向を持ち始める。

 パナマウント訴訟というのがあって、制作と配給上映は別にしなければならないという判決が出ました。それ以後ハリウッドは壊れていくことになります。その壊れる直前に嘘のような輝きを見せていたのが、フィルムノワールというものであります。90分以下のB級作品だけではなく、90分以上のA級作品。ジャック・ターナーの『過去を逃れて』(1947)、プレミンジャーの『堕ちた天使』(1945)と『天使の顔』(1953)などもあります。(つづく)