私の中の見えない炎

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庵野秀明 × 樋口真嗣 × 樋口尚文 トークショー “十三回忌追善 実相寺昭雄 特撮ナイト” レポート(2)

樋口真嗣監督の回想 (1)】

 樋口真嗣監督は『帝都物語』(1988)や『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』(1990)などにスタッフとして参加した。

 

庵野「ぼくは(実相寺作品を)見てるだけ。スタッフだったのは樋口さん」

真嗣「小僧でしたから、そんなおれが実相寺さんを語るというのは…。初めてお墓参りにも行ってきたんで、怒られるなと。日が落ちてから行きましたからね、怖い(笑)。

 『帝都物語』で実相寺さんが10年ぶりに映画を撮るということで、当時バブルですから、いまはどこかへ行ってしまった西武の弟の人(堤義明)がやってる会社がお金を出して、プロデューサーの一瀬隆重さんはまだ20代。革命が起きるんじゃないかと。

 当時ガイナックスであるアニメの準備をしてたんですけど、お金は先に『機動警察パトレイバー』(1988)に出ちゃって、キャラクターデザイン変えろとかも言われて。それでおれは実写に戻る!と。

 どのくらい絵が描けるかのオーディションがあったんですよ。絵コンテ屋をさがしてるって。クレジットはコンテ作画。でも何も言われない。実相寺さんは絵コンテはいらなくて。おれの頭の中にある実相寺さんというか、こう描くと喜ぶと思って描いてるバカさ加減。喜ぶわけない。自分が昔やったことを何でいまさら描くんだと思ってたんじゃないですか」

尚文「『帝都』のときに、こちらが聞く側で会ってたんですね。赤坂のコダイの後ろに喫茶店があって、さすがにそのときは話してくれました。共通の編集者の人が「きみは実相寺さん好きだろう?」って言うから、もちろんですと。好き嫌いは激しい方って言われたけど、結構ウェルカムで3時間くらい話してくださったんですけど、安い菓子パンをずーっと食いながら(笑)。ただ実相寺さんはヌーヴェル・ヴァーグの人なのかなって思ってたら、ルネ・クレールが原点だと。昔のほうだったというのが、そのときびっくりしたこと」  

真嗣「(自分の前では)すごく機嫌が悪かった。岸田理生さんが脚本書いたんですけど、それはどろどろの近親相姦物。ATG時代的なエロスと暴力と呪いというのだったのが却下されて、東宝でやるからエンタテインメントにしなきゃいかんということで。うわっこんなことあるんだってくらい方向性が変わって、機嫌が悪いのは察して余りある。当時は下っ端なんでよく判らなかったけど。

 キャストも変わっていって、嶋田久作さんに会えてよかったですけど。昭島のオープン行くとき、青梅線の電車で嶋田さんといっしょになるんですよ。「ぼくはいいのかな、これで」って、あの顔で。もう撮っちゃってるんだから(笑)。ナイーブな方で。「ぼくなんか、映画出ていいのかな」。植木屋さんもやってて「植木はいいんだよ、人と会わないから」「植木は喋らないからいいよ」って。優しい人です。

 (セットで)いとうせいこうさんの役の書いた考現学の絵入りのメモを書かされて、嶋田さんの加藤が通り過ぎたらいとうさんが何かに気づいてメモをべらべらめくるんですよ。そのめくる分だけ描かなきゃいけない。このぐらいの厚さを全部描いて、1週間くらい描いて」

尚文「全然気づかず見てました」

庵野「初めて聞いた。大変だったね」

真嗣「ただ役に立ってるだけで嬉しい。そういう気持ちでした。出来上がったらこうなったか。音楽のつけ方とかすごいなと。『ウルトラマン』(1966)や『ウルトラセブン』(1967)もそうだけど」

庵野「音楽あんまりつけない人ですからね、そもそも」

真嗣「『帝都』は派手目でしたけどね。引用曲、これで終わるんだと」

尚文「真嗣さんの描かれたコンテ見てると、実相寺アングルというよりイメージボードっぽかった」

真嗣「ひたすら描いてました。なかなか淋しい(笑)。実相寺さんは、映画はATGでのパーソナルなものが多かった。それがオープンエンタテインメントで、現場でせめぎ合ってました。すごいもの見せていただきました。

 ただ、すべての問題を金で解決してました(一同笑)。セットが間に合わない、じゃあ日活に建てよう! 東宝ベースなんですけど、仕掛けがらみは大映、昭島にオープンセット。日本橋はどうするってなって、あれは世界観が違うじゃないですか。黒バックで闇っぽい。あそこだけ日活です。埼玉の学校に蔵づくりの校舎と運河があって日本橋までの道行きはそこで撮ってます。あまり明治には見えないけど、日本橋のシーンもそこでやるはずが間に合わなくて。結局日活で。木村威夫さんと実相寺さんが組んでるってのもすごい」(つづく)