私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

寺田農 × 中堀正夫 トークショー(実相寺昭雄監督特集)レポート (3)

【監督 実相寺昭雄 (2)】

中堀「張家口の小学校で、日本は美しい国だと教わる。小学校で幕を張って、稲垣浩さんの『無法松の一生』(1943)を初めて見るんですよ。人力車で小倉の街を通る印象がすごいと。上陸用舟艇に4泊5日で畳1枚で4人寝かされて、苦労して日本に帰ってくるけど、緑の山ばっかりで。日本は綺麗だったんだって降りて列車に乗ったら、全部焼け野原。夕暮れどきに姫路を通過して、壊れた姫路城に夕陽がかかって、この落差は何だろうと思ったと」

寺田「そういう原風景がって評論家は解説するけど、嘘だね(一同笑)。なぜ実相寺が映画界を目指したかも判らない。ただ中国の青島で尊敬したのが美術デザイナーの金森馨。影響されたらししくて、この人がいなかったら実相寺は映画の世界に来なかった」

中堀「張家口と北京は1時間半くらいの距離なんですが、金森家に行ってたみたいです。遊びに行って、帰ってきたのが8月15日。日本が負けたと親父に聞いたと。『無常』(1970)でも石堂(石堂淑朗)さんに中国から帰ってきた人のシーンを書いてほしいと言ったらしいんだけど、おれは経験してないからお前が書けばと言われたと。でも自分ではなかなか書けなかった」

寺田「最初から映画志向で、テレビは踏み台っていうのがあったんだろうけどね。最初のころの『無常』や『哥』(1972)には、中堀が言った原風景みたいなのは色濃く残っているかもしれないね。途中からもっと大胆に傲慢に、自分だけの世界に。最初のころは、人に伝えるという観客を意識した部分があったかもしれないね。それ以降は、映画はダメだと気づいたんだろうね。日本映画のシステム自体が絶望的だと。だったらおれは好きな映像を撮る。フィルムとかVTRとかはこだわらなかった。そのかわりカメラは池上のこれじゃないと、とか言って『波の盆』(1983)みたいな名作が生まれた」 

寺田「われわれの業界では、昔は映画を本編と言ってた。予告編に対しての本編。昔のバカな映画人はやたら本編志向があったけど、実相寺はそういうのなかったね。

 他の人の映画やテレビドラマなんて全く興味がなくて見てないから、役者を知らないのね。だから実相寺の映画で出てくる男は、私と清水綋治と石橋蓮司堀内正美しかいない(一同笑)。女も同じような人で、後半はぼくがキャスティング・ディレクターをやっていました。『ユメ十夜』(2006)とかね。

 これだけ作品を遺しているけど、役者が賞の対象になったことは1回もない。役者を役者と思ってない。役者に恨みがあるんだね。自分が役者を志したこともあったらしくて、そのころ珍しかったテープレコーダーに自分の声を吹き込んでみて聴いたら、なんだこれはと。だから声にこだわりがあってね、実相寺組に出ている役者は声がいい人。

 ぼくなんか何故これだけつき合ったかというと、ぼくは実相寺が次に何をやるかというのがものすごく愉しみだった。最後の『シルバー假面』(2006)もそうだし、『乱歩地獄』(2005)の「鏡地獄」も映画化不可能と言われた原作をどうやって映像にするのかとか」

中堀「行きづまってたときに “お前、おれ最後に撮りたいものがあるんだ” って言うんですよ。お前とふたりだけで撮りたいっていうから気持ち悪いなあと思って(笑)、なんですかそれって訊いたら “誰も見なくて結構です” という題名の映画を撮りたいって。タバコを相当吸ってたころで、ハイライトってタバコを1日3箱必ず吸うんですよ。器用だからパラフィンと紙と銀紙とを綺麗に分けて、ノートに挟んで持って帰る。それが段ボールの箱に6箱たまったと。それを壁4面と天井に貼って、お前はカメラのスイッチ押したら外に出てていいと。それが “誰も見なくて結構です” 。実現しませんでしたけど 」

 

 中堀氏は、アダルト系作品の参加は断っている。

 

中堀「『ラ・ヴァルス』(1990)のとき、こういうもの撮りたくないんで、ぼくの下でチーフをやっていた人たちが監督とやりたいのにできないんで、譲りたい。ぼく気が狂っちゃうんでって降ろしてもらって。後に監督が週刊誌か何かに “カメラマンがこういうのダメだ、降ろしてくれ” って言われたと。監督に、降りるなんてもってのほかだって怒られたことがあります(笑)」(つづく) 

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