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田中優子 講演会 “家から連へ” レポート (1)

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 花王芸術・科学財団主催で2016年から行われているシンポジウム“これからの家族を考える” 。第1回の山田太一氏の講演を聴講し、第2回は行きそびれたが、2018年11月の第3回は参加することができた。

 『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫)や『江戸の恋』(集英社新書)などで知られる田中優子・法政大学総長の講演とに加えてパネルトークもあったけれども、筆者の能力の限界により、田中氏の発言に絞ってレポしたい(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。 

江戸の想像力―18世紀のメディアと表徴 (ちくま学芸文庫)

江戸の想像力―18世紀のメディアと表徴 (ちくま学芸文庫)

【基調講演 “家から連へ” (1)】

 私たちは家族や家という概念にがんじがらめになっているのかもしれません。家族はコミュニティです。自治体や国民は大きなコミュニティですが、家族のような小さいコミュニティもありうるんですね。家族をそういうふうに考えてみることもできるじゃないかと。

 江戸時代には家族という言い方ではなく、家と言っていました。家という観念があってそれが近代家族になるんですが、江戸時代の家は夫婦別姓でした。いまは夫婦別姓になると家族が壊れるとおっしゃる方がいるんですが、世の中には夫婦別姓の国がたくさんあります。同じ東アジアでは中国も韓国もそうですし、日本もそうでした。ヨーロッパでも自由に選べるようになっています。ドイツにならって日本も夫婦同姓になりましたけど、ドイツもいまは選べるようになっています。東アジアの国として、日本も夫婦別姓だった。

 ただ夫婦の姓、氏を持っている階級と持っていない階級がありました。時代劇には姓がない人はあまり出てきませんが、適当に屋号などを呼んでいたんですね。姓、氏を持っている夫婦は別姓で、別財産制でした。結婚した後もずっと自分の財産なんです。嫁入りで箪笥や着物をたくさん持って行ったとします。それで夫の事業がうまくいかなくて、奥さんの着物を持って行ったら、離婚するときには返さなきゃいけなかったんです。

 明治時代になって壬申戸籍がつくられました。姓や氏が解消されて、平等に苗字になりました。明治31年に夫婦同姓が法律で定められます。同姓にしたら、家父長制が崩れるじゃないかと異論を唱える人もいました。夫婦別姓は家父長制とセットなんですね。そこで明治政府は戸主権をつくりました。強いもので、勘当とか絶大な権限を持っていました。夫婦同姓と戸主制とが合わさって、江戸時代に比べてがちがちの夫婦関係になりました。

 家が家族になって族、血縁ということになる。血のつながりがあるもので構成するものが当たり前になりました。日本では血のつながりのない人が家の中にいるのが普通でした。養子も気楽に行われていました。家族でなく、家が大切だったからです。ひとつの企業体で、商家でも息子を外へ出して他人を家に入れて存続させたりしました。存続が目的で、血のつながりよりも能力が問題でした。婿養子でも能力のあるお婿さんが大事でした。例えば小関三治郎さんという人が5つ年上の女性と結婚しました。その女性の家は伊能家で、三治郎は名主になって家を大きくしました。財産もできて隠居して、力学を学んで全国を測量しました。伊能忠敬です。

 家は企業体で、夫婦だけでなくいろんな人が出たり入ったりしていました。商家では、能力のある番頭を婿養子にして家を大きくするとか。そもそも日本の家族は通い婚が基本で、『源氏物語』もそうですが、男性が女性のところに通って、女性は実家で子どもを産む。その後で婿入りする。やがて婿入りが減って、嫁入りが増えました。

 ヨーロッパの夫婦別姓は、生まれたときの名前を大事なものとしているんです。夫婦が同姓である必要は全くないという考え方です。

 家族は個が基本だって言いますが、戸籍筆頭者という形で戸主の制度を受け継いでいる。家族がバラバラになって個人になって孤独に生きるのか。そんなことが、いまのような高齢化社会で現実にできるのか。連というコミュニティに可能性があるんじゃないか、と考えています。江戸時代の家族は、血縁でない個性が能力と役割を寄せ合うコミュニティもありうるわけですよね。(つづく) 

 

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