私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

高田宏治 × 伊藤彰彦 トークショー レポート・『笠原和夫傑作選』(3)

笠原和夫の作家性 (2)】

高田任侠映画はやむなくそういう世界に入ったけど、美意識を持っていたやったら受けたわけや。あの人の『博奕打ち 総長賭博』(1968)でも如実に出てますよ。血のつながりをぶち破るジレンマに目をつけて、書いた。肉親を殺すときに、けちな人殺しと言ってしまうと任侠道は成り立たない。やくざにとっては正義のはずなのに、それを否定してかかる。あの人は任侠道をつぶしていく。ぼくらは受けることばかり考えてたけど、あの人は冷たい眼を持っていて、世代的なものかな。愛国ってことで死を覚悟した。強い人は拒否するけど、彼は拒否しなかった」

伊藤「共作なさった作品ではどう仕事をされたんでしょうか」

高田「ぼくじゃない他の人と共作したときに、東映の俊藤浩次さんが最初のホンを読んで“あかんな”のひとことでアウト。“あかんな”の声の大きさで、直したら行けるかどうかが判る。誉めないのよ。ベテランの脚本家になるほど誉めない。古いスタイルだけど、脚本家が威張り出すとけなす。“いまは高田がいちばんや”ってぼくは駆け出しで、時代劇から横滑りしたころ」

伊藤「他の人に聞こえるように言うんですね」

高田「笠原さんがある人と共同脚本で、俊藤さんは“あかんな”と。すると笠原さんは共作相手の悪口を言い出す。これはなかなか言えない! だけど言った。すごいなと思ったよ。脚本の世界で生きていくというのは。共作した『馬賊やくざ』(1968)では、俊藤さんが“あかんな”言うたら笠原さんは“これでぼく、仕事なくなるんですか?” 。ドキッとするよ。彼は正直だね。きたないなとも思った(一同笑)。ぼくは、仕事がなくなるって危機感はなかったな。あの人は50万でぼくは20万くらいかな。いっしょにやるときは4等分。タイトル(クレジット)は笠原さんが先。箱を頭から終わりまでざっとつくって、全体を4とするとぼくが1と3を書く。最初の打ち合わせで大きいストーリーつくって、人物の名前決める。

 やくざ映画は最後必ず殺し合いになるけど、殺すときの台詞も困るんですよね。抱き起こしたときの台詞は“死なないでくれ” 。そんな、死にかけてるのに死なないでくれとか(笑)。苦労するんですが、あの人はうまい。それでぼくは勉強させてもらった。ぼくは大阪出身だから笑いが好きで、藤山寛美さんが女郎屋へ来て、“お2階へ”って言われたら“2回もできんの!”とか(一同笑)」

伊藤「『資金源強奪』(1975)で“一般の人出てください”って言ったら、山城新伍が“前科一犯”って言いますね」

高田「あれはアドリブですけど、ぼくが書いたことにしときます(一同笑)。笑いのところでは、ぼくが寝てても起こして“面白いね!” 。

 やくざって言い回しがうまいからね。川内(川内弘)さんも“高田さん、人を斬るのってひやっこいよー”って。ひやっこいって表現聞いたの初めて。ピストル使わないからね。斬らずに済んだとき、嬉しいって(笑)。

 (未映像化の)『実録共産党』ではこういう台詞は合わない(一同笑)。笠原さんのいい部分が出ないのよ。解説ばっかりしてる。これは映画にならんわ。共産主義の根幹はマルクスレーニンの、強制的に体制を打破するテロ。根本的に出立の誤りがある。そういうことをドラマの中で語らなきゃダメじゃないかな。笠原さんが共産党やってるから、ぼくに完結編が回ってきたのよ」

伊藤「笠原さんの日記によると、下で共産党書いてて、上の階で高田先生が完結編を書いてると」

高田「完結編のとき、笠原さんが巻物くれたんですよ。ストーリーが書いてあって、いまはどっか行ってしまったけど。(巻物によると)広島の組織が過激で、便所に逃げて助かったと聞いたから、完結編で北大路欣也が狙われて、便所では失礼だから押し入れに逃げたことにしたら、それでも怒鳴り込まれてえらいことに。

 笠原さんの『沖縄進撃作戦』(未映像化)の後で、ぼくは『沖縄やくざ戦争』(1975)ってのをやるんだけど。忙しくて来た仕事は何でもやるからね。沖縄返還の次の年で、ロケに行けなかった。すごい雰囲気だったですよ。興行を握ってる人がいたんだけど、その人がモデルの役を(作中で)笠原さんは全然よく書いてないもんね。私がやったら立てるのよ。この前、シナリオ作家協会の講師に行って、好きな映画5本くらい書けって言ったのよ。ぼくが講師で来るって判ってるのに、誰もぼくの作品書いてない。お前ら、脚本で商売しようと思ったらおべんちゃら身につけなきゃダメだよ。人生、べんちゃらやで(一同笑)」(つづく)