私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

梯久美子 講演会 レポート・『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(4)

 (自殺前年の手紙)2通に「睡蓮」という詩が書いてあったんですね。原さんの全集にも入っていないもので、完成度は高くないんですが、祐子(祖田祐子)さんのことが出てくるんですね。原さんの中には自分たちは3人グループだというのがあったんじゃないかと思います。

 遺書が出てきたのを知って、祐子さんに会いたいと思ったんですね。「去年の春は楽しかったね」というのは、祐子さんといとこの女の子と、遠藤(遠藤周作)さんがフランスに行く前に4人で多摩川でボートに乗った。幸せな1日だったという想い出なんですね。遺書にも「悲歌」にも書かれています。

 すごく綺麗な人でした。とてもお元気でいらっしゃいました。昔のお写真を見せてくださって、原さんや遠藤さんたちと知り合ったころから何年か後で25〜26歳でしたけど、かわいいと言うよりきりっとした感じの方なんですね。21歳でも大人っぽい女性だったんじゃないかなと思いました。自分は大ざっぱなタイプで、作品から想像なさるような繊細な人ではないとおっしゃっていました。本にも書きましたけど、本当にいい時間を過ごされたんだなと思えるような話をしてくださいました。遺書は彼女が持っていたんですね。遠藤さん、原さんとは不思議な関係で、遠藤さんは大学を出てクリスチャン関係の2つの出版社でアルバイトしていて、論文が載ったくらい。小説も書いていなくて無名です。原さんも「夏の花」を書いていたけど売れてもいなかった。文学少女が作家と仲良くなったというなら判りますけど、そうではない。でも彼女はつらい時期だったんですね。なかなかタイプもうまくいかなくて、英語もうまくならない。でも(英文タイピストとして)就職してしまった。そういうときに(3人の間に)全然共通点のないところがよかったんじゃないかとおっしゃっていました。3人でいっしょにいたのは1年くらいですけど、思い出すとそのときのことが雲のように浮いてる感じがしますとおっしゃっていて。原さんは疎開で広島で原爆に遭って、家は倒壊したので、郊外の村で暮らしてたんですけど居づらくなってくる。原さんは体も弱いし、世間的なことはできないので、役に立たない。上京するんですけど、お金も住むところもなくて体重が36キロ。遠藤さんは複雑で、お母様が大好きだけど、お父様が女性をつくって離婚してしまう。関西で暮らしてましたけど、落第ばかりで望む大学に受からない。それでお父さんが別の女の人といる東京の家に住んで、そこから大学を受験して、そこから大学に通う。鬱屈しているものがあったんですね。徴兵の直前に戦争が終わったそうで、その空虚な感じもあって。戦争直後の東京でないと出会わなかったような、どこも行くところのない人たちが神保町で出会って、不思議な交流があって。原さんが亡くなった後、ずっと会えてない。昭和28年くらいに遠藤さんが日本に帰ってきてから祐子さんのことを書いたエッセイがあって、ぼくはきみをさがしているって書いてあるんです。そのあと結局、花幻忌っていう命日の集まりで会えたみたいで、17〜18年くらいはお会いになっていたようです。

 私が原さんの作品で好きなフレーズがあってですね、大事なのであえて本の中に引用しなかったんですけれども。

 

心のなかで、ほんとうに微笑めることが、一つぐらいはあるのだらうか。やはり、あの少女に対する、ささやかな抒情詩だけが僕を慰めてくれるのかもしれない。U……とはじめて知りあつた一昨年の真夏、僕はこの世ならぬ心のわななきをおぼえたのだ。それはもう僕にとって、地上の別離が近づいてゐること、急に晩年が頭上にすべり落ちてくる予感だった」(「心願の国」) 

原民喜戦後全小説 (講談社文芸文庫)

原民喜戦後全小説 (講談社文芸文庫)

 素敵な人にめぐり会えたら、だから生きようと思わないで、死ぬことは既定路線。でも死に至る道を明るく照らしてくれるのは、彼女の存在だったんだなあということですね。祐子さんの文章に最初はぎょとしましたけど。生きる力をもらったのでなくて。

 知り合ったころに原爆の情報があまりなかったようなんですね。まだ占領下で報道されていない。原爆に遭ったらしいとは知っていても、どんだけひどいか判っていないと祐子さんはおっしゃっていました。(つづく)