私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

梯久美子 講演会 レポート・『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(3)

 「夏の花」は冒頭に広島市内の奥さんのお墓参りに行ってるんですね。私も行こうと思って、原さんの歩いた通りの道を歩いてみたんです。お墓は白島というところにあるんですけど、家はそこの南ですが、本を見るとまっすぐは帰っていないんです。帰った通りの道を行くと、鶴羽根神社があって、何か見たことあるなと思ったら原さんが奥さんと結婚式を挙げた神社だったんですね。お墓参りの帰りに、ご自分では書いてないですけど、結婚式を挙げた神社を回ったんじゃないかな。

 そのそばに東照宮という神社があって、被爆した次の日に東照宮へ行って、そこは広いので怪我人の人が集まっていたんですね。その日から野宿するんですが、持っていた手帳に書いていってそのメモをもとに秋から「夏の花」を書き始めるんですね。その東照宮にメモの文章が書かれた碑があって。メモの中で「コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ」と書いています。それまでは死にたい人だったんですね。子どものころから死が身近にあって、生き甲斐だった奥さんが死んじゃって、その人が爆心地から近いところで被爆したにもかかわらず、おうちがお金持ちで頑丈だったんで。投下の瞬間に厠にいたので光も浴びなくて済んで、無傷で生き延びたわけです。原さんは空襲を怖がっていて、自分は真っ先に死ぬと思っていたんですけれども。これは書き残せってことじゃないかと思ったんですね。この石碑は最近にできて、私は2014年11月に見に行ったんですね。境内が広くて、どこにあるか判らないんです。赤い袴をはいた巫女さんがいたので、“原民喜の碑ってどこにありますでしょうか”って訊いたら、“えっ、タヌキの碑ですか!?” (一同笑)。作家の原民喜のって説明したら、赤くなって“訊いてきます”って踵を返して走って行ったんですけど。七五三の直前で、アルバイトの巫女さんだったのかもしれなくて、かわいくて、きっと原さんがこれを知ったら笑って許してくれるだろうなと思ったんです。そのとき、祐子(祖田祐子)さんのことを思い出したんですね。祐子さんは文学少女ではなくて、元気で明るい方だったんです。コラムには奥さまとのことを書いたんですが、いつか明るい祐子さんとのことも書いてみたいと思ったんですね。  

百年の手紙――日本人が遺したことば (岩波新書)

百年の手紙――日本人が遺したことば (岩波新書)

 コラムが本になって、広島市立図書館の方に報告したらすごくいい方で、講演に来ませんかと言ってくださって。そのときの学芸員の方が、きょうのお客さんで“お話を祐子さんに聞かせてあげたかったわ”とおっしゃっていたそうなんですね。何となく奇跡の少女というか、あまりに美しく描写されているので、ご健在だとは衝撃だったんですね。すぐに取材に行ったわけではなくて。なんかこう、私の中に準備ができていないというか。経験上、急いでやればいいというものじゃないということも判っていまして、まだそういうときじゃないなという気がしたんですね。一般の方なんで遠慮したというのもありますし。伝説の少女はそのままとっておきたいという気持ちもあってですね、そのままにしたんですね。2017年になってから調べていて、何年か前の新聞記事を見ていたら、フランスのリヨンに留学していた遠藤周作さん宛ての遺書が出てきたそうなんですね。現物は見つかっていなかったんですが、遠藤周作の蔵書・原稿が寄贈されて、その中から発見された。時間をかけて調べていたら出てきたと。全集に載っていた文面とちょっと違う。遠藤さんが自分のエッセイに引用していて、日記も書かれている。句読点や言葉の使い方程度で、全集をつくるときに遠藤周作から採ったんでしょうけど、現物には詩も添えられていたんです。「悲歌」という、祐子さんに贈ったのと同じ詩だった。現物を長崎へ見に行ったんです。その学芸員の方に、ふと思って、出てきたのは遺書だけですかって訊いてみたんです。(遠藤周作を)見送ってから1年8か月くらいありますから、他にも手紙を送ってたんじゃないかなと思ったんですね。そしたらあって、活字にもなってないそうで。

 思いがけない形をした遺書でして。他の遺書は原稿用紙だったんですが、これはグリーティングカードみたいに。「碑銘」という詩です。

 

遠き日の石に刻み

 砂に影おち

 崩れ墜つ

 天地のまなか

 一輪の花の幻

 

 ちょっとおしゃれな形のもので。原さんの文学碑が原爆ドームの横、原さんらしく隅にあるんですが、自分の墓碑銘のつもりで書かれたんでしょうけど。

 遺書17通は下宿の机の上に綺麗に並べてあったそうです。それとは別に宛名があって文面のないハガキが何枚かあって、自分が自殺したことをこの人たちに知らせてくださいと。すごく用意周到な感じです。エアメールも封筒に入って送られていて。大久保房男さんという19歳の「群像」の敏腕編集者で原さんとも親しかったんですが、当時の遠藤さんの日記を読みますと、原さんからの手紙が着いた翌日に大久保さんからの手紙が来たと書いてあって。(つづく)