私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

梯久美子 講演会 レポート・『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(2)

 この本は書きすぎないことを自分に課したんですね。島尾ミホさんは過剰な人で、書く対象に引きずられると言いますか、私も過剰に書きました。原さんは寡黙な人で、多くを語らない。原さんのことを書くと、原さんっぽい本になりますね。

 

 晩年、亡くなる2年ぐらい前に原さんは神保町に住んでいらっしゃったんですが、「三田文学」の編集部があった文学書林のビルの一室です。遠藤周作さんといっしょにいるときに、近所に住んでた21歳の若い女性と知り合うんですね。遠藤さんは原さんより17歳くらい下で、「三田文学」に出入りしていて原さんと仲良くなる。

 遠藤さんは、私の年代ですと狐狸庵先生で、悪ふざけもする明るい方というイメージがありますけど、実際に悪ふざけの好きな若者。原さんは対照的に本当に暗くて、人と口も聞けない。奥さんも亡くして、原爆に遭って、住むところもなかなかなくて苦労していらっしゃいました。いまで言うコミュ障。遠藤さんが見かねていっしょにいるときに、女の子と知り合って、年下ですから恋愛ではないんですが、娘というのでもなく、友だちのように3人グループでよく会っていて。晩年のつらい時期だったと思うんですが、その彼女との交流が心あたたまるというか。人生の最後にそういう時間があってよかったなと思えるんです。

 原さんのことを調べ始めたら、遠藤周作さんのエッセイの中で3本くらい原さんに触れたものがあるんですね。神保町で知り合って、どんな交流があったかと書いていらっしゃって、「原民喜の夢の少女」というんですが。原さんも「永遠のみどり」と「心願の国」の中で彼女のことを書いています。裏を取るじゃないですけど、事実として認定するには3つあればいいかなと思っていて。原さんと遠藤さんの証言がふたつあって、遺書があるんで、この方は実在したんだろうと判断しました。その後で神保町で全集を買いまして、3巻あって、もう1冊の別巻には原さんについて書かれた文章が集められています。原さんは流行作家でもないし人見知りだったんですけど、すごくたくさんの人が追悼文とか想い出を書いています。その全集の3巻目の月報にその祐子(祖田祐子)さんっていう方が原稿を書いています。いまから30年くらい前ですが、彼女の書いたものはこれだけです。私は全集を買うときは月報のあるものにしますけど、月報はあまり世に出るものではないので。私がびっくりしたのは、

 

若し私が、あの時、原さんの気持のほんの少しでも理解出来たら、或いは何か一言ぐらい、一寸面白いことでも云って笑わせてあげられたら、もっと楽しく死の旅につかれたのではないかという気が致します

 

 多少驚きますよね(笑)。普通、作家の追悼文にこういうこと書かない。がぜん、興味が出てきたんですね。原さんや遠藤さんの書いた祐子さんはすごくかわいらしくて素敵な女性なんですけど、この追悼文を書いた人ってどういう人なんだろうと会ってみたくなりまして。

 2011年に東京新聞に「百年の手紙」という連載をしまして、いろんな人の手紙を短いコラムに1年間書いて、岩波新書になってるんですが、祐子さん宛ての遺書について書いたんですね。それが、私が原さんについて原稿を書いた最初なんですが、その後で「日本経済新聞」で作家の恋愛や結婚をテーマにした連載をしてまして。そのときに原さんの奥さん、素晴らしい方で全然売れない作家の原さんを心から支えて、お見合いで結婚されたんですけど、あなたは絶対にいいものが書けますと励ましつづける。奥さんが亡くなるまでの間に1冊自費出版の本が出せただけなんですね。それでも新字つづけて支えた、素敵な方で、その奥さまのことを日経の連載に書いたんですね。

 現場主義ですので広島へ行こうと思って、奥さんの弟の評論家の佐々木基一に宛てた遺書を見たんです。彼への遺書が美しくてですね、その手紙が広島市立中央図書館にあるということが判って、見に行ったわけです。テクスト、内容は判っているんですが、現物が見たかったんですね。どんなときも現物を見たり、現地へ行くんです。何があるというわけでなくても、その土地を踏むということにしていまして。(つづく)