私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

四方田犬彦 トークショー レポート・『親鸞への接近』(3)

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 平塚らいてう研究家の方から四方田柳子について教えてくれと言われて何それ? 母に訊いたら“あなたも遂に知ってしまったのね”と(一同笑)。

 おばあちゃんはもうひとりいたと知って、国会図書館へ行って「婦人画報」や「婦人公論」を調べて。大正時代の女性同盟で活躍したらしい。らいてうはニーチェが好きで、柳子さんは仏教徒なんで、それで別れちゃった。後妻のおばあちゃんはうちのじいさんと結婚する前に実は子どもがいたことが、だんだん調べると判ってきて、四方田家の女たちには秘密があるんですね。それで本を書いて。女たちは必ず秘密を持っていて、男が到達できないものである。そういうことを書いた本です。秘密へのリスペクトは秘密を秘密のままにとどめておくことだと、ハイデッガーが言っています。秘密は高貴な存在形態であるから、封を開けないでおくのが礼儀だと、彼は本の中で書いてます。自分とハンナ・アーレントのことですね。絶対そうですよ(一同笑)。往復書簡が出ましたからみんな判っちゃいましたけど。封印をこじ開けていくと、あらゆる女の人に秘密があって、男には絶対到達できないものだということが判ってくる。私のおばあちゃんに子どもがいたなんて、パブリックには何の意味もない情報ですけど、探求すると女性と秘密についてのことが浮かび上がってきた。この本が、私が書ける限度で、吉行淳之介みたいなのはありませんし、ああいうことしても女性の本質が判るとは思いませんけど。女性は秘密と結びついていて、本質的な秘密を守るためにダミーの秘密を持つとか。私はそのくらいで、女性については回避しているのかもしれません。 

母の母、その彼方に

母の母、その彼方に

 また回避してきたのは親鸞で、個人の回心。何かを信じるようになるって意味なんですが、学生時代に親鸞についてレポートを書いたんです。親鸞は29歳まで山の中で修行して、難しい経典を読んでいたエリート僧です。彼が山を下りて、聖徳太子がつくった六角堂に100日間こもってお経を唱える。まだ20代で煩悩、性欲などが出てくる。女の人に触れちゃいけないけど、夢の中に女の人が出てくる。96日目か98日目、諸説ありますけど、夢に観音さまが出てくる。そんなにしたいなら、私としなさい。私とすれば一生面倒見てあげるから、だから私とセックスしなさい。そこでがばっと目が覚める。そこで彼は町へ行って、法然のように念仏を唱えるという世界に飛び込む。苦行をして女性を遠ざけて修行するというのを棄てる。法然は念仏を唱えるだけで浄土に生まれ変わることができる、ちゃんと書いてあるんだと。すべての世界中の人が私の名前を、“南無阿弥陀仏”と言えば、成仏できます。念仏を唱えればいいんだと。親鸞はがらっとそっちへ行く。法然は結婚してみろと言う。それで左大臣の娘と結婚しちゃう。念仏やって、結婚して子どもつくって180度変わる。その後で法然親鸞は流刑になる。そのへんで彼は、自分は僧侶でも俗人でもないと、頭剃るのもやめて乞食坊主になっちゃう。汚いかっこで過ごす。大学で俗世間を断って勉強する、つまり私は28歳くらいまでの親鸞と近いところにいたんですね。学問を究めれば、心の救いになるんじゃないかと。ところが親鸞は一気にそれを止めちゃう。観音さまが裸で出てきたことをきっかけに棄てちゃう。私は昔、そういうの理解できないと書いたんです。卒論の審査のときに、教授が観音菩薩が女性だってことになっててどうしてそう結論できるんだと。私は全然答えられなかったですね。とにかく親鸞は鬼門で封印しとこう。親鸞みたいになったら、勉強する意味がなくなっちゃうんじゃないか。道元もひたすら勉強して宋の国へ行ったり、日本でも勉強する。70になっても80になっても、と書いています。夏も冬も、とにかく修行を積まなきゃいけない。道元のほうが偉いと思って、親鸞は遠ざけていました。親鸞を読むと、知的探求の足下が崩される。

 50代を過ぎて、考えが変わってきたんです。ひとつはチベットへ行ったんですね。いろんなお寺があって行列で、みんな10時間くらい待ってる。中に観音さまがあって生々しい。男女がセックスしてるような仏像ばっかりで。お参りする人に特別な人がいて、尺取り虫みたいに自分の体をぱたっと倒す。立ち上がって、また倒れる。ござとリュックサックを持って、1分間に1メートルくらいずつ進んで、お寺に入ったり周りを回ったりする。もっとすごいのは、3〜4か月も自分の故郷の村からラサまでずっとやってる。体中傷だらけで、ぱたんぱたんと来るわけです。道中をしてお参りすれば、浄土に行けるから。難行なのか易行なのか。尺取り虫みたいにぱたんぱたんと傷だらけで、私にはできない。ところが、彼らにとっては易行なんです。やれば絶対に浄土に行けるから。信仰というものがあると、何でもないこと。私は信仰がないからできないけど、信じてる人たちは幸福感につつまれてる。(つづく) 

親鸞への接近

親鸞への接近