知っていることを知らない人に伝えるのでなくて、いま思いついたことを即座に伝えて、どんなふうに理解してもらえるか。『歎異抄』(角川ソフィア文庫)とかを読んでいると、親鸞と弟子たちの会話が興味深い。親鸞が「きみは私の言うことを信じますか」と言うんですね。
「絶対に言うこと聞きますね」
「もちろんです」
「では出かけて行って、1000人殺しなさい」
「無理です。1人も殺したこともない」
「私の言うこと聞くと言ったじゃないですか」
人は殺すと言っても殺せない。でも弾みで殺したりする。人間、悪いことをしようと思ってしていなくて、いいことしてるつもりで悪いことしちゃうとか。大抵のことはそうなんですね。人間は機や縁というものがないといいこともできないし、悪いこともできない。何で殺したんだと刑事が言うと“つい弾みで” 。何故1000人殺せないかというと、縁がないから。縁があれば殺しちゃう。人間を超えたものが、人間の行動のいちばん中心にあると言っています。親鸞は著作ではなくて、弟子と話してるうちに思いつく。哲学的な体系とかではないんですね。
昔の大学では先生が判らなくて頭抱えちゃうことがあった。私が学生のとき、先生が黙りこくって。大森荘蔵っていう哲学の先生ですが、“時間というのは、こっちが流れていくのか、あっちがやってくるのか。どっちなんだ”って考えてるうちに“こっから先が判らないんだ!” 。ノートのとりようがない。先生が考えているのに立ち会う。5分か10分くらい黙ってるんですよ。それで“次は来週!”(一同笑)。こういう先生はいまならクビですよ。その場で考えてる。私がコップを見ているのか、コップのほうが私を見ているのかとか。大森先生の授業で、彼が立ち止まるとこっちも立ち止まる。でも置き去りにはされない。目の前で、こんなに真剣に考えてる人もいるんだと。頭を抱え込んで。強烈に印象に残っています。現場で考えて、判ったふりをしてごまかさないんだな。大森荘蔵が考えてるところに立ち会っただけでもよかった。そういう濃密な授業を私はやっていたのか、自信はとてもないですね。
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私はかつて1994年に、『回避と拘泥』(立風書房)という本を書きました。私と同じ世代の文化大革命の紅衛兵について、平壌に滞在したときのことについて、天皇裕仁についてとか書いた本です。東アジアの政治について、日本語と天皇制とどちらが滅びるか、天皇制がなくなったとしても日本語はつづくか。日本人として生まれてどうしても拘泥、こだわらなきゃいけないことについて考えました。また日本人が回避したことを何故私が拘泥しているかを書いて、そういう題名にしました。できることなら考えないで済ませたいものがいくつかあるんですね。ひとつは韓国、朝鮮。もうひとつは女性。女性のことはいくら考えても判らないし、できることなら考えないでおこう。私にとっては、もうひとつは親鸞だった。20歳くらいのときにゼミで親鸞を読まされて、卒論でも“観音菩薩は男性ですか。女性ですか”と訊かれて、答えられない。答えはないんですね。超越してる。
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全く偶然というわけではないですが、私は大学を出た後しばらく韓国に住んだんですね。韓国の文字が何だか知らずに韓国に行っちゃったんです。大学院の同級生が韓国の留学生でつられて、韓国の大学で日本語の教師をやっちゃったんです。70年代に軍事独裁政権で、誰も行きたくなかったんですね。いいイメージは全然ない。グルメとエステの国なんて誰も考えてないわけです。とにかく誘われて、まず招聘状が来たらハングルで、ハングルが判らない。大韓民国の文字ですとか言われて、何だこの○とか△は? バスの路線図や標識を読まなきゃいけないし。システムはローマ字と同じで、ひらがなやカタカナと比べたら簡単で、仕組みはすぐ判っちゃう。住んでて何だこんなことかってのが半分。ごはんと味噌汁とインスタントラーメン食べて、日本と同じじゃないか。半分は学校の中に秘密警察がいたり、徴兵制や女性差別とか全く違う。いる間に戒厳令になって、学校はデモで休講ですから、大学に行って判子押して月給もらってました。そのうちに韓国に対する拘泥はなくなりましたね。友達もできましたし、韓国映画の監督呼んだり。民主化して日本映画が解禁されたのも見てきましたけど、いきなり熱いお湯に入っちゃった感じで、その後にアメリカや中国に行っても“こんなものか”みたいな感じでした。
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女性一般のことに関しては、150冊書いた中でも論じてないですね。1冊だけあるのが『母と母、その彼方に』(新潮社)で、おばあさんとその背後のおばあさん、母親と四方田家の三代の女性について書きました。私のおじいさんの奥さんで若くして亡くなられた方がいて、その人は中学高校で平塚らいてうと同級生で、日本最初の女子大生になって、婦人解放運動をやった。42歳で亡くなられて、後妻に入ったのがうちのおばあさんということを、私は50歳になるまで知らずにいた。(つづく)
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