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切通理作 トークショー “日本の怪獣映画 本多猪四郎から現代・未来へ ” レポート(4)

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 でも『シン・ゴジラ』(2016)でも近い設定があったし、初のアニメ版の『GODZILLA 怪獣惑星』(2017)を見たら、まさにそういうゴジラゴジラがいろいろ操って収拾つかなくて、地球人は地球を見捨てちゃう。1万年後くらいに地球に戻ったら、まだゴジラがいる。そのゴジラに親を殺された青年がリベンジする。いかに近づいていくかが描かれてて、本多さんのゴジラの延長線上にあって継承してる。本多メモをこの本(『本多猪四郎 無冠の巨匠』〈洋泉社〉)で紹介したので、脚本家の人が読んだかな?と思ったりしたんですけど(一同笑)。本多さんの考えていたゴジラがいちばん新しいゴジラに生かされていて面白いと思いましたね。

 『シン・ゴジラ』でいろんな形態に変化して、人間体みたいになって世界中に散る直前で封じ込めた。飛翔するという説も途中で出てきました。賛否ありましたけど、ぼくは面白いと。初代ゴジラのころはゴジラが怪獣の代名詞。水木しげるのマンガでもゴジラの血清を注射したらゴジラになったというのがあって、そのゴジラは南の島の恐竜で特に東宝映画と関係ない。怪獣と言えばゴジラだったんですね。いまはゴジララドンモスラキングギドラがいて種類のひとつですけど。最初のインパクトはゴジラによってこの世界が終わってしまう、人間が万物の霊長でなくなるという恐怖。逆にわくわくもしますね。そういうのを見せる映画でした。だんだん見慣れてしまうというところもあって。縮小再生産でなくて最初のインパクトをやろうとするのは難しいけど、本筋の部分を本多さんがちゃんと考えていたというのは、本多さんは未来人だったとぼくは思うんですね。

 SFのひとつとしての怪獣映画ということで、怪獣が現れたらどうするか、それを倒すために人間はもっとおそろしい存在にならなきゃいけないのか、克服するにはどうするかというのは、日本だけでなくて世界中の人が見ても判る話。ゴジラのねたと同じ手帳に『妖星ゴラス』(1962)のことが振り返って書いてある。『ゴラス』は怪遊星が地球に接近してくるから地球をロケットにして回避する壮大な映画で、世界的にヒットしました。メモには、自分は何本か文部省選定になったけど基本は無冠の人間である、世界中の人に見られる作品をつくったというのは自負していると書いてあって。この本の「無冠の巨匠」というのはぼくが貶めたんじゃなくて。どうして世界中の人に見られたかというと、寅さんと比較して書いてある。寅さんは日本人にしか判らないものを描いていて、自分の映画は人類の未来を描いたから世界中の人に判るのだ、誇りに思うと。本多さんはSF特撮に自負があったんだ。いろんなジャンルを撮ってて、ほんとは怪獣物を撮りたくなかったんじゃないかと言う人もいたんですが、資料が発掘されてきて。『妖星ゴラス』は本多さんは外される予定で、きみはメロドラマが向いてる、仲間の黒澤(黒澤明)さんもこういうのをつくっても特撮の評価になるだけだからと言ってる、きみは辞退したまえというようなことを言われていて。だけど本多さんは自分が絶対やりますと言ってつかみ取った。結果的にヒットして、手応えのある記憶として書いているんです。 

 初代ゴジラのときに香山(香山滋)さんの検討用台本の最後は怪獣をひとりの科学者の犠牲で葬って、世界中の国が核を放棄するのが暗示されて終わっています。娯楽映画としてはハッピーエンドにするのが普通で、現実そうなってないというのは現実の人が考えることですが、本多さんと脚本の村田(村田武雄)さんはこれどうなんだろうと。第五福竜丸の後に核がなくなるというのは嘘っぽいと思ったはずです。そこで志村喬の台詞でゴジラが最後の1匹と思えない、核実験がある限り第2第3のゴジラが出てくるという台詞に変わった。こないだ亡くなった思想家の西部邁さんが、初代ゴジラについてあの台詞は示唆的だと言ってたんですね。核というのはおそろしいから廃棄したい、だけど誰かが持つ限り自分が持つことは止められない。そういう構造をあの時点で鮮やかに提示してると言うんですね。トランプ政権の政策を見ていても、その問題は残っている。初代ゴジラで提示されたものは古びてないし、解決してない。新しいゴジラも面白いけど、昭和29年のが殿堂入りの名作ではなくていまも通じるテーマを突きつけつづけている。これでよかったという終わりにすると現実と地つづきにならないというのが本多さんたちの精神だと思いますね。