私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

片渕須直監督 トークショー(TAAF2018クリエイターズサロン)レポート (2)

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【受賞作について (2)】

片渕「(『杏茸を少々』〈2016〉のつくり手は)宮崎駿のファンですって言ってて、料理のつくり方が好きですって。せっかちなんだよね。ぼくもせっかちなんだけど、もう1回やんないと料理にならないと。料理を基準にして、ドタバタ具合が変わってもいいんじゃないかな。両方やりたいのは判ったんだけども。

 面白いのは、(『杏茸』は)豊島区長賞で各国審査員が受賞させたわけではなかったと。こういうのが日本人好みだと思っちゃう。アニメーションに何を求めているかというと、こういうの。『翼と影を』(2015)のほうは観念的で、よく動いて鳥の柔らかさとかは判るけど、その上に生活感がほしいとわれわれは思っちゃう。ドタバタもやりたいけど。絞め殺された鳥がおいしそうに仕上がると、においや味が自分の中から引っぱり出される。いろんなものが輻湊している感じがする。そういうのをアニメーションに求めているのはわれわれかもしれない。日本のアニメーションのそういう部分、宮崎駿アニメにビビッドに感じて、食材の質感とかにあえて踏み出したのかな。鳥は映像、視覚だけで描ける。にわとりのおいしそうなのは、映像に別のものを刺激される。あの料理はおいしそう。きいちごのジャムに光が透けてるとか、視覚の次元とは違うところまで行っちゃう。理想化されたところに行くのが宮崎駿さんで、悲惨な現実ではなくて理想化された何かを見出す。現実よりおいしそうとか、理想化して描く。そういう映像が描ける。限界はどこかって線引きしないでいく。テレビアニメではストーリーの部分に脚本家がちゃんと立って、その領分で左右されるのが大きいかな。

 脚本家が映像をもっと考えてくれると変わってくるかな。おのずと線引きしてるというか。脚本家がおいしい料理を書きたいって言ったらどうなるか。演出の側がついてくるかとか、そういう問題も出てくる。分業になって、そういう方向に進みにくいかな。『杏茸を少々』がひとりで描いてるって、納得できる話ですね。ローストチキンのにおいを描きたくて、絵を描いてる。ぼくも脚本書いてて、食べるものとか字で書けないものを盛り込んでってる。

 シナリオ作家協会の講座で喋ってくれと言われて。(受講者は)ライターを目指してる人で、学生とおじいさんがいる。アニメーションでは絵コンテが大きくて、ストーリーも決まってくる。アニメーションのライターになりたい人もいるけど、絵コンテとの関係が判らないと。いきなり絵コンテ描いてもいいんじゃないかとも思うけど、字で書くというのは左脳を使う。絵コンテでは右脳を使うんですよ。右脳と左脳は別人格。シナリオを書くとストーリーから考えてて、それで絵コンテ描くと(シナリオで)何書いてんだ、このバカと。もっと違う展開あるでしょって感じがする。左と右はあるって実感して、ふたりでやってるようなところも若干ある。両方で重なってる部分もあって、外から見るとひとりの人格。シナリオが絵コンテという表現になった途端に変わる。シナリオの中でこんな手順踏まなくていい、真ん中を短絡して、こっちいけばこうなるとか 。あんなに考えてたのに、自分に否定されるのかと。最近は絵コンテを自分で描いてない。絵コンテだけで全然違う。ビジュアルをイメージするだけで変わっちゃう。絵コンテとかをやって、文字では到達できない表現になっていくのかと。

 ごはんとかって(万人が)共有しやすい。世の中にどう抑圧されてるかって、共有しにくい。だから自分はこうだとか特殊な体験とかをヒントとして散りばめられてる作品のほうがいいんじゃないかな。パン焼く前を知らない人もいるだろうけど、『杏茸を少々』では味も想像できる。あれは共有できる部分ですね」(つづく) 

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

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