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飯島敏宏 × 小倉一郎 × 仲雅美 トークショー レポート・『冬の雲』(1)

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 『二十四の瞳』(1954)や『永遠の人』(1961)の巨匠・木下惠介監督がシナリオを手がけ、伝説的に語り継がれるテレビ『冬の雲』(1971)。挿入歌「ポーリュシカ・ポーレ」もヒットした。

 8月、出演者の小倉一郎仲雅美、プロデューサーの飯島敏宏によるトークショーが行われた。小倉・仲両氏は“雅美と一郎”というイベントを毎月開催していて、今回は飯島氏がゲストで登場するという形だった(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。 

ポーリュシカ・ポーレ (MEG-CD)

ポーリュシカ・ポーレ (MEG-CD)

【テレビ創生期の想い出 (1)】

 飯島氏はテレビの演出・プロデュースや映画監督で知られるが、もとは脚本家志望だった。

 

飯島「ぼくはラジオドラマコンクールに優勝して、放送された。ほんとは小説書きたかったんだけど、食べていけないでしょ。学生時代にアルバイトでラジオドラマを書いてた」

ラジオ東京っていうのはTBSの前身ですね」

飯島「そうそう、それで花登筺とか有名な先生が書いてくださらないとき、プロデューサーが“ちょっとあしたまでに書ける?”」

小倉「あしたまでに(笑)。脚本のほうが先だったと」

飯島「その後テレビを始めるので、うち(TBS)へ来いよってことになって。行ったら、脚本部はつくらないと。だから演出部へ。いまでも演出は素人、師匠がいない。

「久世(久世光彦)さんなんかとは同期ですか」

飯島「久世くんは後輩。久世くんたちは入社式やったの。ぼくたちのときはいろんな世界からずるずる集まってきて、試験がなかったけど、1年経ってから試験やるって言われた。ここから自慢話なんだけど(笑)、『コーラスライン』(1985)の方式で、並んでて番号呼ぶでしょ。呼ばれた人は前に出る。呼ばれないから、おかしいな答案ちゃんと書いたのになと思ってたら、前に出たのは“お前たち、いくら下駄履かせてもダメだ”って。呼ばれなかった3人が合格。落っこった人は、クビではないけど、1年間は嘱託ということで。落ちたほうは落第組、落第組って言われてたけど、そこから社長が出て、落第組のほうが偉くなったよね。

 久世くんたちは正規採用。その下は実相寺(実相寺昭雄)、並木章くん、高橋一郎くんとかそうそうたるメンバー。おれたちはADになれないDAだってことで、“DAの会”っていうのをいまだにやってますね。

 デビュー作は『ますらを派出夫会』(1957)というので、お手伝いに行ったら監督が現場に来ない。時間が迫ってきて、代わりにやってデビュー作になっちゃった。今泉貞鳳さん、若水ヤエ子さんといった喜劇人が出てました。そういう火事場の助っ人」

「ますらをというと、男の家政夫?」

飯島「『家政婦は見た』の男版みたいな喜劇。リハーサルでは今泉貞鳳さんだけ来るの。後で国会議員になっちゃったけど、彼は真面目だから来て、他の人は来ない。だけど本番は上手くやるんだよね。

 時代劇を撮ってる監督が具合悪くなっちゃって。森伊千雄さんという、津島恵子さんの旦那さんがチーフ(助監督)で、ぼくがサードです。生放送でしょ。演出家は心臓が悪くて、本番が始まる5分前に倒れちゃった。お前ディレクターやれということで。それからその方は、毎週具合悪くなる(一同笑)。芦田伸介さんなんかも出てた『維新風雲録』(1958)という時代劇。その次はご褒美で『鳴門秘帖』(1959)。頭からディレクターでした。タイトルで“演出:飯島敏宏”と出たのは最初。それまでは演出してても親方の名前が」

 

 『月曜日の男』(1961)では脚本・演出、主題歌作詞を務めた。

 

「主題歌を水原弘さんが唄われてるけど、レコーディングにあたって、詞がよくないってことで」

飯島「いまは考えられないけど、主役の探偵がピストル振り回す。で、その探偵の名前が作詞者。当時、お水はレコード大賞取った後で勢いがあったときで、いい詞だけど、合わなかったんだね。いつまで経っても録音スタジオに入ってこない。ぼくに才能があったわけではなくて、ディレクターだったからやらないと間に合わない。あのころはもちろん生放送で途中からVTR」

小倉「それは生放送の日?」

飯島「劇伴や主題歌の録音の日で前日、翌日が生放送。レコード大賞の受賞者だから誰も何もね…。腫れ物に触るように。察して、しょうがないから。1番だけ思いついて、ぱっと見たお水が歌い出したんですよ。1番歌ってるときに、2番3番書かなきゃいけない(笑)。

 プロデューサーと監督と兼ねてた。脚本家に頼んでもホンができてこない。1週間のうち、1日ロケで、2日リハーサルして生放送。翌週のホンができてこないから、会社でホンを自分で書いた。(他の)脚本家が書いたふうにしてオンエア。筆名は、そのころ所帯持ったのが北千束だったから、千束北夫と」(つづく) 

 

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