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なべおさみ × 満田かずほ トークショー レポート・『独身のスキャット』(1)

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 ウルトラマンをヒットさせていた円谷プロダクションが大人向けドラマに初進出したのが『独身のスキャット』(1970)。瀟洒な室内で物語が展開し、いま見ると昭和のイケてる男女が次々登場するのが面白い。

 平凡なサラリーマン(なべおさみ)が自身のマンションを毎夜貸し出すことを思いついた。彼の部屋には夜ごとさまざまな人物が訪れる。

 

 8月に横浜市にて『スキャット』第5話の上映と、主演・なべおさみと満田かずほ監督のトークショーがあった。

 なべおさみ氏は映画『吹けば飛ぶよな男だが』(1968)や『日本人のへそ』(1977)、テレビ『終りに見た街』(1982)や『葵 徳川三代』(2000)などにて快演。70代後半とは思えない快活なご様子だった。

 『ウルトラマン』(1966)や『ウルトラセブン』(1967)の演出でも知られる満田監督は、この日が80歳の誕生日。今回はそれを祝うトークイベントであったが、大半はなべ氏が喋っていて、その勢いには圧倒された。なべ氏が「すみませんね、先生」と言うと、満田監督は「いや面白いからいいよ」と鷹揚に応じていた(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 

【『独身のスキャット』の想い出】

なべ「TBSの前身のラジオの時代にものを書いていたんです、KRラジオで。赤坂へ越す前。ぼくには縁の深いところ。でも『シャボン玉ホリデー』は日テレで、そこでお世話になっちゃって。

 (『独身のスキャット』の)プロデューサーが円谷一さん。この人がぼくに会いに来て、やらないかと言ってくれて。それまでは面識なくて、ゴジラとか出てませんし」

満田「一さんは1961年に(TBSを)退職して、餞別として1本あげると言われて。『アパートの鍵貸します』(1960)をもとに企画立てた」

なべジャック・レモンのをもとにして。それにしちゃ、ちゃちいな。(いまは)こんなの、企画出しても通らないよ。ラブホテル、闇屋でしょ。正義にもとるよね」

 

 『独身のスキャット』は円谷プロの創業者でもある円谷英二監督の遺作のひとつでもある(監修とクレジット)。

 

満田「(放送は)1969〜70年で、英二監督が亡くなったのは1970年1月25日。亡くなった後も番組はつづいてました」

なべ「亡くなったとき、小田急のお宅へ飛んでいきました」

満田祖師ヶ谷大蔵だね」

なべ「プロデューサーのお父さんですから、敬意を表して。TBSの人といっしょに行ったのをいま思い出しました」

満田「一さんは専務でした。英二さんはもう入院していた」

なべ「もう自分が後を継ぐって判ってましたね」

 

 当時の円谷プロは、制作費のかけ過ぎなどで行き詰まっていた。

 

満田「『恐怖劇場アンバランス』(1969)の仕事やってて、このときから円谷プロは持ち直すと思ってた。その前は(社員が)ひとけたの人数しかいなくて、ひとけたなら版権収入だけでやっていけると。

 脚本書いてもらって、現場で演出するだけ(企画には無関係)。歴史的に言うと円谷プロ初の同時録音作品です」

なべ「そうなんですか」

満田「(同録は)スケジュール的なこともあった。東宝ビルトでエアコンなくて寒い。いまみたいなカイロはない時代で、ハクキンカイロ買ってなべちゃんにあげたね。

 TBSは(自社の)監督は派遣してくれなかったね。(第1話の)長谷部(長谷部安春)さんは『アンバランス』の監督で来てもらって、一プロデューサーと知り合って、それで長谷部さんから行こうと」

なべ「おれ麗子(ヒロイン役の大原麗子)と話して、これやめようって言ったの。面白くないから。『スキャット』は1クールで止めて、太秦に行ってぼくが木下藤吉郎大原麗子がねねやって、そっちに移行する(『青春太閤記 いまにみておれ』〈1970〉)。しばらくつづいて、里見浩(里見浩太朗)ちゃんもまだ売れてなくて、それで勝新太郎さんが時代劇判る人を置いてくれて。所作は時代劇を経験しないと、はまらない。船床定男監督とも意気投合して、アイディアいっぱい出しました。

 円谷プロは、後で会社そのものを私の友だちが買って。明大事件で落ち込んでたときに、月100万くれて遊ばせてくれた。そういう人間も世の中にいる。それで円谷の名をキープできた。円谷って名がないと海外の目が違う。マニアの人もね」(つづく

 

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