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えびはら武司 × のむらしんぼ × 三浦みつる トークショー “マチコとエルとハゲ丸が語る漫画の神様たち” レポート(2)

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藤子不二雄A先生について】

浜田「私はA派。自称20歳のときに『まんが道』を読んで感動して、漫画家になろうって思って。私のにはちょっとA先生の絵も入ってて「ドーン!」も「使っていいですか」って言って、許可もらいました。回を重ねるごとに『笑ウせえるすまん』っぽくなっていきましたね。

 A先生に『プロゴルファー猿』のゴルフクラブ見せてくださいって言って、クラブはくれなかったけど、ゴルフボールいただきました(笑)」

のむら「編集から聞きましたけどA先生は1日で5、6軒はしごするって。30分くらいいてすぐ行っちゃうらしいんだけど、かっこいいですね」

えびはら「A先生は「また来るよ」って言った店には必ず行くからね」

手塚治虫先生の想い出】

三浦「手塚先生の虫プロが倒産してどん底から復帰しようとして、秋田書店の壁村耐三さんの誘いで『ブラック・ジャック』が「少年チャンピオン」で始まる。それが当たって復活というときに、手塚プロに入りました。『ブラック・ジャック』が50話くらい、始まって1年くらいのときですね」

浜田「みうら先生、あげちんですね(一同笑)。「チャンピオン」だったんですか。「チャンピオン」って喧嘩とヤンキーとエロなのに(笑)」

三浦「手塚先生は、雑誌の仕事は絶好調。二度とアニメはしないと周囲に誓わされて、でも本人はお金貯めてまたアニメをやろうと思ってた。『三つ目がとおる』『ブッダ』『ユニコ』『MW』とか週刊誌2本に月刊誌、隔週刊誌と忙しかった。

 行く(出社する)と必ず徹夜。朝引き上げて1日休んで、また翌日というローテーション。班に分かれて365日稼働している。正規のアシスタントは10人くらいで、OBとヘルプが入る。仕事場には常に7、8人から10人くらいいました。当時アシスタントの応募は700人くらいあった。

 手塚先生は技術的なことは教えなかった。忙しくて、そんな暇がない。だから先生から盗むんですね。ぼくらは休むけど、手塚先生は完全に休んでいるところは見たことない。寝転がって描いてるときはあったけど。空港でタクシー降りて、ボンネットに原稿並べて、アシスタントに指示出したり。虫プロ倒産の後に手塚は古いと散々言われてて、本人も忸怩たる思いがあって、復活したからここでおれは1番になるっていう気負いもあったのかな。仕事が多すぎた。

 練馬区富士見台の越後屋ビルに手塚プロがあって、ぼくの入った後で高田馬場に引っ越した。

 手塚先生は滅多に怒らないし、叱らない。2回遅刻して「遅い!」って言われたくらい」

えびはら「藤子プロは10時半スタートで、だいたいみんな遅刻してくる(笑)」

三浦「手塚先生は、負けず嫌いっていうのはありました。『3時のあなた』に出る前、布施明のヒット曲は何かって訊かれて「シクラメンのかほり」ですかねって答えたら、ああそうですかって。『3時のあなた』でその話をしてましたね。知らないって言いたくない」 

えびはら「(この仕事は)結婚が遅れるというのはあるよね、引きこもっているから。藤本先生も心配していて」

三浦手塚プロでは、女性の下着とかが描けないから女性スタッフも入れましょうってことで。ぼくは職場結婚して、別れました(一同笑)」

 

三浦手塚プロの事務の人でエルヴィス・プレスリーが大好きな女の人がいて、プレスリーが亡くなったときはみんな腫れ物に触るように接してた。そこへ手塚先生がすっと入って来て、プレスリーのレコードをかけて、すぐ上へ行っちゃう。彼女はわっと泣き出して家へ帰っちゃった(一同笑)。

 手塚先生は、いつまでもアシスタントやってるんじゃない、2年くらいで辞めて行けと。辞めるきっかけは「少年マガジン」の漫画賞に入選したので、そちらでぼちぼちと。ぼくが辞めた後で、またアニメを始めましたね。ぼくの後に残ったアシスタントはアニメも手伝わされて大変だったって。24時間テレビ(『愛は地球を救う』)のスペシャルアニメって放送の日もまだ撮影中だったって。それも中継されればもっとスリルがあったのにね(笑)」

 

 ちょっと登壇者が多くて各々があまりゆっくり話せなかった感もあったが、熱気があって愉しいイベントではあった。

 

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