私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

1992-1997 “自虐映画観”の時代(1)

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 幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました…と昔の詩(中原中也「サーカス」)に描かれているようにさまざまな時代があったわけだが、歳をとると過去といまとの落差に驚くことがある。もちろん戦中戦後などに比べればさしたる変化でもないけれども1990年代も20年前、すっかり遠くなってしまった。

 貧富の差の拡大、ネットやSNSの爆発的普及など誰しも感ずる変化はいろいろあるだろうが、筆者が思うのは日本映画の扱いについてである。

 昨年、「キネマ旬報」1994年2月下旬決算特別号を見ていたら、全編罵倒が並んでいて少々ぎょっとさせられた。「キネマ旬報」では毎年2月下旬号にて前年のベストテン選出が行われ、評論家たちが各々のベストを投票する。1993年度の日本映画部門では「日本映画は低迷」「つまらない」と大半の評者が罵っており、そう言えばこの時代の日本映画は蔑まれていたのだと茶色く変色したページを繰りながら暗澹たる気分になった。その年には『お引越し』(1993)、『僕らはみんな生きている』(1993)、『ヌードの夜』(1993)などの秀作があり、現在と比して特に劣っているようにも思えないのに…。 

 私事になってしまうが筆者は1990年代に好んで映画を見始めた。邦洋問わず見ていたけれども、邦画の話をすると周囲の嘲笑を受けた。レンタル店で邦画のビデオのパッケージを指すと吹き出すように笑われたり「所詮洋画に敵わないんだよ」などと優越感に満ちた顔で言われたりした。その人たちは別に洋画の関係者でも何でもないのだが。

 その時期はマスコミでは「元気のない日本映画」と喧伝され、特に若い人は「日本映画はつまらない」という観念で凝り固まっていたような感がある。もちろん評論家はそのような空気を察するので、ダメな部分をオーバーに非難することになる。特徴的なのが、例えば『デビルマン』(2004)は駄作だ、というように特定の作品を論難するのではなく、日本映画という産業自体が包括的にくだらないものだと日本人に目された点である。洋画を愛する反面、自国の生み出す邦画を見下す思考・感性を、巷間言われる “自虐史観” を真似て “自虐映画観” と呼称したい(笑)。

 筆者の個人的な実感に過ぎないけれども “自虐映画観” が吹き荒れたのは概ね1992年から97年あたりのように感じられる。その少し前には異業種監督ブームというのがあり、タレントや作詞家など他の業界の有名人がこぞって映画監督に挑戦した。特に桑田佳祐の『稲村ジェーン』(1990)と小田和正の『いつかどこかで』(1992)はそれぞれバッシングに見舞われ、大きな話題を呼んでいる。

 だが1992年を過ぎると、邦画が良くも悪くもマスメディアを騒がせることも少なくなり、興行成績は低迷。この時期には異業種ブームのようなめぼしいムーブメントのないのが痛く、観客が邦画を敬遠した要因でもあろう。1970〜80年代にはヒット作・佳作を連発した角川映画も、総帥・角川春樹が1993年に失脚してからは停滞。『マルサの女』(1987)、『マルサの女2』(1988)などでヒットを飛ばしていた伊丹十三監督も『大病人』(1993)、『静かな生活』(1995)では興行的に失速する。気を吐いていたのは、宮崎駿監督率いるスタジオジブリの作品やゴジラのようなファミリー映画、『男はつらいよ』シリーズくらいのものであった(ジブリ作品はアニメなので、観客の中では “つまらない邦画” とは別にカテゴライズされていたように思われる)。

 当時、映画ジャーナリストの大高宏雄は「観客ゼロ地点」に近づいていると評した(『興行価値 商品としての映画論』〈鹿砦社〉)。(つづく