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藤子不二雄A インタビュー「藤子不二雄Aが語る私と『ドラえもん』の50年」(1996)

 18年前の1996年9月23日に漫画家の藤子・F・不二雄藤本弘)先生が逝去した直後の、藤子不二雄A先生のインタビューを以下に引用したい(藤子A先生の発言に絞って引用)。

 藤子A先生の自伝的な『まんが道』(小学館)を読むと、10代で富山から上京したころに藤子・F先生(がモデルの才野)が激しく咳き込む場面があり、その後どうなったか描かれないまま完結してしまったのだが、胸を悪くしていたのだと言及されている。 

 

 藤本君は夢をみる少年でしたね。小学生のころ、オバケの出てくる怪談が好きで、ふたりでよく映画の『四谷怪談』などを見にいきました。ボクはお寺の生まれなんですが、オバケが嫌いでね。怖かった。オバケがにゅうっと出てくると、思わず目をつぶっちゃうんですよ。

 彼は違った。じっと見ている。脇腹をつつかれ、「なんで見ないんだ」といわれました。彼は小学生のころから未知なるもの、不思議なもの、四次元の世界に興味があったんです。そういう好奇心が『ドラえもん』につながったと思いますね

 

 中学になり、彼は星や宇宙に興味を持ち始めたんです。星座にすごく詳しかった。ボクは北斗七星しか知らなかったが、彼はいろんな星座を知っていましたね。「火星には火星人がいるかも」と、そういうことをよく話していましたよ。

 星を見ていろいろと類推して科学的に組み立てていく。興味の対象がどんどん広がっていくんです。未来のことと同時に古代史にも関心があった。とくに古代ローマ史が好きだったですね。映画『クオ・ヴァディス』がきたときなんか、毎日のように映画館へ通っていました。セシル・B・デミルの映画『十戒』なんかも大好きでした。そういえば藤本君は『十戒』の預言者、モーゼに似ていましたね

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 (1988年のコンビ解消)当時、周りから「喧嘩別れをしたんだろう」とといろいろいわれましたが、そんなことはなにもなかった。

 漫才コンビはコンビをつくるために一緒になるが、ボクらはたまたま偶然知り合って漫画を描き始めたんで、ふたりの間には打ち合わせも契約もなかった。藤本君がいいものを描くと、ボクもいいもの描かないと悪いなあという気持ちで描いてきたんです。お互い相乗効果で四十年やってきたんですが、そろそろ漫画家として定年近くになったので、このへんで思いきって一人になってやろう、ということでそれぞれ独立したのです

 

 藤本君は繊細で優しい線で、日常的な世界からポンと四次元の世界を描く。これが彼の大きな特徴でした。

 漫画家というのは、いくら努力して描いても読者に喜んでもらえなければなんにもならない。だから、多かれ少なかれ読者を意識して描くものですが、彼にはそれがなかった。自分にとって描きたいもの、楽しいものを描く。それが結果として子供たちに受け入れられたんです。そういう意味でボクは彼を天才だと思います

 

 彼はイメージの中のファンタジーの世界を自由に描いていく。読者である子供たちは、のび太と一緒に“どこでもドア”を通って、その四次元世界にドップリひたることができるのです

 

 (1954年に上京したころ)藤本君は胸をわるくしたんです、でも、食べるのに精いっぱいで医者に行くことさえ出来なかった。それを根性で治してしまったんですよ

 

 (10年前、医師から再検査を言われて)彼、「まったく自覚症状がないのになァ」と不満そうでした。それからです。彼が体調を崩し病院に通うようになったのは。だけど、藤本君は昔から顔が細面だから、やつれはみえませんでしたね

 

 昔、ワイフが病気で倒れたときなんです。「大丈夫?少し休んだら。仕事は俺がカバーするから」と彼がいうんですよ。突然だったので、ホロリとなってしまった

 以上、「週刊読売」1996年10月13日号より引用

 

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