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三谷幸喜の “作家性” について・『国民の映画』

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 昨2013年には原作・脚本・監督を務めた映画『清須会議』が大ヒット、今年は作・演出を手がける舞台(再演含む)が目白押し、2016年には大河ドラマの脚本を担当することが発表されるなど三谷幸喜の人気ぶりは近年も相変わらずである。これほどの知名度を持つ人物であるゆえもちろん賛否両論かまびすしいけれども、彼はどのような作家なのか、再検討してみたい。

 三谷幸喜の監督映画のうち、『THE有頂天ホテル』(2006)以後の4作品は大ヒット。掲示板などでは若い世代やおばさんの観客が詰めかける光景に「三谷作品は、こんなミーハーな連中が見るものになっちまった」というようなファンの嘆きも見受けられるが、そもそも三谷はそれほど “通好み” な作家だったのだろうか。 

 1980年代から “東京サンシャインボーイズ” を主宰して、三谷幸喜は演劇活動を行ってきた。劇作と平行して『古畑任三郎』シリーズ(1994〜2006)、『王様のレストラン』(1995)などのテレビ脚本も手がけている。1990年代には舞台の感覚をテレビに持ち込んだ異才のライター、というような触れ込みでメディアに登場することが多く、無知な筆者などは演劇界で評価が高いのかな、などと思っていたけれども、当人によると「僕の書くものって劇評家の人に評判悪い」そうである(「GALAC」1998年1月号)。

 三谷の作品は、特に90年代までは登場人物がすれ違いや他愛ない嘘をきっかけに大パニックに陥っていくというようなものが多く、笑わせてある程度後味良く終わるエンタテインメントであった。

 80年代は小劇場演劇が盛んであり、つかこうへいや野田秀樹が席巻していた。筆者は幼かったのでそのころのリアルタイムの評価を目にしたわけではないけれども、ウェルメイドに笑わせる娯楽劇を得意とする三谷が作家性の求められる時代に批評家から否定的に扱われたことは想像に難くない。はるかのちの2003年にもライターの小松克彦は評する。

 

井上ひさしの芝居を見れば彼には確固たる歴史観があり、まだ歴史観が確立していないと思える三谷幸喜は足下にも及ばない。また、橋田壽賀子倉本聰のシナリオを読めば、問題意識や社会観念がしっかりと、ドラマに書き込まれているが、三谷は人間そのものを描くことには長けているが、社会観が希薄だ」(別冊宝島『面白さのツボ!三谷幸喜の全仕事』)

 

 その通りと言えばその通りであるが、娯楽作家に「歴史観」や「問題意識」を期待するのはピント外れにも感じられる。誤解を恐れずに言ってしまえば三谷作品は技巧の高さや仕掛けの才気、人間観察の面白さなどがあっても飽くまでエンタテインメントであり、読み解いて評論するような類いのものでは、ない。あるいは観客に「問題意識」を投げかけてくることもない。三谷作品について論評すると、その愉しさや巧さを賛嘆するか、先の評者のように底の浅さを非難するか、選択肢はどちらかだけなのではあるまいか。

 三谷自身も見終わってすぐ忘れてしまうような笑いを目指す、と表明したことすらあり、作家性の強い存在になりたいと思っていたわけではないらしい。  

 ナチスを描いた舞台『国民の映画』(2011)は、登場するのはほとんどが実在の人物であり、シリアスな題材ながらも歌や笑いもあるという趣向で(筆者が見たのは2014年の再演版で見事な出来映えだった)コメディ系列の劇作家として引き合いに出される故・井上ひさしを想起させた。だが両者の内実は相当に異なる。

 井上の場合は、実在の人物を主人公にして評伝劇を創作する際には笑いを交えながら戦後民主主義の意義を説くという構造になることが多く、演劇評論家扇田昭彦は「痛烈な社会批判、猛烈なサービス精神」と井上作品を評する(『才能の森』〈朝日選書〉)。大作家の「社会批判」を拝聴して「問題意識」を共有した観客は自分も利口になった気がして優越感を覚えることができる。一方で三谷は史実を扱っていても、特に何らかのメッセージがあるわけではなく『国民の映画』ならばゲッペルス小日向文世)やヒムラー段田安則)といった歴史上の人物をごく人間的に描く。三谷は「史実だというエクスキューズ」によってコメディ作家の自分にも登場人物の友情や死といったシリアスな領域が書けるのだと話しており(『三谷幸喜 創作を語る』〈講談社〉)やはり井上と三谷とは及ぶとか及ばないといった問題ではなく、似て非なる世界に棲んでいるように思われる。

 さて細部の整合性や伏線にこだわったり、過去の映画を引用したりとマニアックさはあるが、純然たるエンタテイナーだった三谷幸喜。その三谷作品に変化の兆しが見えている。夫婦生活の破綻をコミカルかつビターに描いた『グッドナイト スリイプタイト』(2008)、凡作だが輸血問題に挑戦した『90ミニッツ』(2011)、先述の『国民の映画』など一連の舞台では辛辣な人間ドラマの側面が強まってきている。監督映画では『ステキな金縛り』(2011)はひたすら能天気なものだったが、『清須会議』はメジャーなエンタメ映画の枠組みを取りつつアンハッピーな形で終わる(映画は2本とも成功作とは思えないけれども)。最近は本人も自身の「シニカルな面」を強調しており、新しいステージへ踏み込もうという意思があるように思われる。今後はエンタテイナーから逸脱するのか、あるいはシリアス性の強い娯楽作家の道を歩むのか(おそらく後者であろうが)。大袈裟に言えば映画・演劇界を左右する(!)分かれ道かもしれない…。