私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

対談 実相寺昭雄 × 富岡多恵子 “映体と時代 映像の現場から”(1974)(2)

【映画と徒弟制度】

 実相寺監督は、自分と合うスタッフを集めて “コダイグループ” を率いた。自身では、その組織体のありように疑問を抱いていたようである。

 

実相寺 徒弟制度がこわれると何が出てくるかっていうと、便利な言葉でいうと、志だよね。つまり志のあるものが寄り集まってつくるというかたちがでてくるわけ。またぼくもそれにのっかってつくってるわけだ。ただこれは絶対ウソだって気持ちが自分でもある。

 

富岡 私も映画なんて銭をガボッと出してくれるやつがいて、職人的スタッフと、ある程度ええ加減にやらないとおもしろいもの出てけえへんと思うけど。志だけがいくらあってもおもしろくなるはずないですよ。

 

実相寺 そう思います。対談の前にぼくは落ちついて映像を撮ってる人、みたいなこと言われたけど、そこらへんに対する忸怩たるものがあるんです。これを言うと怒られるかもしれないけど、映画は徒弟制度は必要だという気がするんです。今は落語なんかの世界だって崩れて来てますよね。でも、映画の世界はそういうものに準ずる世界だと思う。

 (中略)

実相寺 文学にしても、ぼくら無責任な読者として読んでも文体の喪失って感じるわけでしょう。いわんや、のっけから映画は大勢で撮るもんだということがあって、しかも職人制度がこわれ民主主義になって、映体がどこに残るのかって気がするね。だって今じゃ文章を読んでも、なにがしかの独特なものがあると感動するもの。たとえば、ある人が旧仮名遣いで書くでしょう。この人よく知ってるんだなあと辞書引いて読むようなことってあるでしょう。そういうことで感動するのは文体以前なんだ。それを文体と錯覚して読むムードって今あるでしょう。当用漢字とか現代仮名遣いに毒されているから。それと同じようなことが映画にもあるわけですよ。中間形態のATG映画なんてのはちょっとむずかしい感じがするけど、文体のない韜晦趣味なんだ。ほんとの文体じゃない。

 

富岡 だからATGでも、お金を今の十倍くらい出したらもっと映体は出るかもしれない。

 

実相寺 やっぱり銭がないと映体はできないでしょうね。

 

富岡 銭と職人制度ね。銭がなくてエキストラも集められなくて、群衆の場面もつくれないとなったら、結果として映体が出ることもありますよ、その人にとって個性的な群衆をつくるわけだから。ところがそれはほんとの映体じゃない。

 

実相寺 そうやってつくったのは、個人の暗闇から出てるものじゃない。映体とは言いにくい。ぼくらでも映画をつくるとき、そういう妥協なき映体で埋めたい願望はあるよ。それが銭がないからこのシーンだけにしようということで、やむなき映体ということになってるんですよ。

 

富岡 悪口も懐しさもあるやろうけど、往年のハリウッド映画を見ていると、一見映体のないような映画にたいへん映体を感じることがあるでしょう。

 

実相寺 それからテレビで気楽に劇映画を見るじゃない、昔見てない「お嬢吉三」とか、ひばりの何トカ御殿とか、古いやつにはそれで、ある映体を感じるんだな。

 

富岡 感じるわ。

 

実相寺 それは志とは違うものがあるからですよ。監督の映体はつきつめられなくても、銭と徒弟制度で受けつがれた職人の残したかたちがある。(以上、「現代詩手帖」1974年10月号より引用)

 

【消えゆく“芸能”】

 映画の将来について懸念を述べているが、好き放題の創作を繰りひろげているように端からは思えても、生活のことを常に気にしているのがいかにもである。

 

実相寺 これはとっくに誰かが言ってるんだろうけど、たとえば国立小劇場で中世の今様を再現するのと同じように、映画も細々とどこかで古い芸能・芸術形態を再現していくために、形態としてかろうじて残るかもしれないという危機感を、最近ひしひしと感じるんですよ。おれなんか、あと二十年くらいたつと、川崎の溝ノ口の駅前で個人タクシーしてるかもしれない。たまに十一月何日に文化の日の映画の催物がございますから演出をしてくださいなんて言われて、その日だけ職業を返上して昔の芸能をするなんてことあるでしょう。テレビでも夜のショー番組でやってるじゃない。ああいうことになるってこと、笑い話じゃなくて、ぼくはそういう状態一歩手前だって気がしますよ。

 

富岡 新橋に残ってる芸者乗せていく人力車と同じや。重要文化財指定になるかもしれないよ(笑)。今国立小劇場で国でお金を出してはる舞の会とか獅子舞とか津軽三味線とかだって、一騎当千の時代があったわけやから、浪花節さって、NHKに出てはるけど、昔だったらNHKに出る暇ないよ、忙しいて。あんな安い出演料もらってやらへんよ。芸能の運命っておもしろいね。芸能のかたちってのは必ず消えるのね。かたちを変えて生き残るけれども。

 

実相寺 結局、国がそこまで映画を見限ってないから。でも見くびってることは明らかだから、その橋渡しみたいなことで、今民間のATGってのが細々と残しているということでしょうね。ぼくの「無常」は再現ですよ。復元かもしれない。もし「無常」に落ち着いた映像を感じられたとしたら。

 

富岡 消えゆくものの美しい閃光や。

 

実相寺 さびしいなあ、きょうは(笑)。(同上)

つづく