私の中の見えない炎

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小山内美江子講演会 “地球市民としてともに生きる” レポート(2)

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【国際ボランティアとカンボジア (2)】

 戦争が終わると賠償がある。でも戦後のカンボジアは、お金は復興に使ってくれと賠償請求を放棄してくれた。そして日本にお米も送ってくれました。あのころのカンボジアは体制がしっかりしていたんですけど、あの後で内戦があった。眼鏡をかけているだけでインテリだと言われて殺されたり。農業をやったこともない人が田舎へ行ってやる羽目になって、それで病気や怪我で亡くなったり。全部で180万人が亡くなりました。

 

高田晴行さんとお母さん】

 1992年5月4日、日本の文民警察官が襲われました。ドライバーは現地の人で、オーストラリアの国軍が警護して。もうちょっと行ったらタイというところで、ポル・ポト軍に襲われたんです。みな撃たれて、高田晴行さんという方が亡くなってしまった。お嫁さんと子どもさんもいたけど、その後誰が賠償金をもらったとか週刊誌が詮索しました。それでひとつの家庭が壊れてしまった。

 でも3年前、晴行さんのお母さんが初めてその亡くなった地へ行って、ここに学校をつくりたいと思われたそうです。息子さんは子ども好きだったから。でもなかなかうまくいかない。いろんな国が援助合戦をして表の道は綺麗でも、ちょっと裏へ行くとぬかるんでたりね。お母さんは今年81歳、私は84でお互いあの戦争を生きてきて。それで息子さんは亡くなって、お嫁さんお孫さんもいなくなって。でも学校をつくりたい。それで500万を出してくれた。やがて寄付も集まって、学校が出来あがったんですね。その贈呈式(4月30日)のためにカンボジアへ行ってきました。

 首都プノンペンから離れたところですが、贈呈式に(日本の)警視総監の人もいた。偉い人ってただ偉いだけじゃなくて、本当に偉い人もいれば悪いことして偉くなった人もいる(笑)。でも若者が死んで申しわけないって気持ちがあったんですね。

 あれから21年。お母さんが喜んでくださって、娘さん(晴行さんのお姉さん)がお母さんをフォローして、スピーチを代読してくださった。大きな式ではなかったけど、いい贈呈式でしたね。

 帰ってきたら、集団的自衛権がますますうるさくなっていた。もう一回あんなことをやるのは、私は厭です。でも厭だって思っているだけではダメですから、しっかり言うんです。

 きょうは高田さんのお母さんの気持ちを話したくて。あんなお母さんをまたつくりたくない。集団的自衛権で、頭叩かれたこともない国へ行って戦わなくちゃならないのか。自衛隊は動揺しているそうです。だれも行きたがらなかったら徴兵制です。男性がみんな連れていかれてしまう。若い人はあまりピンとこない人が多いけど、それは親がちゃんと教えなきゃいけない。

 

【その他の発言】

 心臓の手術をしたので、カンボジアも長く行っちゃいけないと言われてるんですけど。きょうは来られるかなって思いましたが、こうやって偉そうに話しています(笑)。

 カンボジアでは学校を315、ネパールでは15つくりました。ネパールはカンボジアより貧しい。教育が平和に寄与することなんです。

 アメリカは、日本とは逆に敵国の日本を研究した。当時将校だったドナルド・キーンさんは日本に興味を持って日本国籍を取っています。国と国とじゃ怖いけど、人と人とだとそういうことがあって怖くないなって思いました。

 きょうはお嬢ちゃんが多いけど、ボーイフレンドも連れていらっしゃいよ。そんなことで先生にらんだりしないから。にらむ先生は昔もてなかった人です(一同笑)。

 このあたり、横浜は昼間の空襲で大変だったんですね。二度とああいうことは厭だと若い人に伝えたい。きょうはありがとうございました(拍手)。

  

 小山内先生は杖をつき、周囲の人に助けられながら歩いていたけれども、それでも情熱的に明晰な口調で話しておられた。講演後には横浜市立川和中学校の演劇部の方々の朗読劇などもあった。