私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

上の空・『まど みちお全詩集』

 詩人のまど・みちおが逝去した。「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」、「ふしぎなポケット」、「一年生になったら」といった童謡はほとんどの日本人が知っているだろうし、教科書で「あさがくると」「イナゴ」などに触れた人も多いだろう。4年前に放送されたNHKスペシャル『ふしぎがり まど・みちお 百歳の詩』(2010)も実に面白い内容で、創作に取り組む姿は詩人まど・みちおの健在を告げていた。 

 まど・みちおは、1992年に『まど・みちお全詩集』(理論社)を刊行。『全詩集』には戦時中に執筆した戦争協力詩2編(「朝」「はるかな こだま」)も収録されている。そのことに触れたあとがきが印象的で(?)それを読んで以後の筆者は、まど・みちおと言えば代表作だけでなく『全詩集』のあとがきも思い出すようになってしまった。

 『全詩集』に収録された戦争詩は2編のみだが、2010年にいまひとつの詩編(「妻」)が発見されている。

 

全詩集を編んだ編集者の伊藤英治さんは、9月に東京都内で開かれた日本児童文学学会の例会で講演し、中島さん(引用者註:「妻」を発見した中島利郎岐阜聖徳学園大学教授)の呼びかけに真摯に答えた。

 「まどさんの業績に傷がつくから、中島さんの指摘は黙殺せよとの声もあった。私はむしろ感謝したい。責任は、全詩集ですべての戦争詩を集められなかった私にある。まどさんはもう巻きこみたくない。戦争詩がほかにないか、もう一度懸命に探す」。

 会場からは「散文は高ぶって書いたとは思えず重たい事実だ」という発言があった」(朝日新聞デジタル 2010年11月6日)

 

 先述のあとがきによるとまど・みちおは、戦時中は戦争詩を書いていながら、戦後は反戦運動に「誘われるままに」参加していたという。

 

つまり、一方で戦争協力詩を書いていながら、臆面もなくその反対の精神活動をしているわけです。これは私に戦争協力詩を書いたという意識がまるでなかったからですが、それは同時にすべてのことを本気でなく、上の空でやっている証拠になりますし、またそこには自分に大甘でひとさまにだけ厳しいという腐った心根も丸見えです」(『まど・みちお全詩集』)

 

 もちろん戦争詩を発表した名だたる詩人はまど・みちおだけではなく室生犀星三好達治高村光太郎、大木惇夫などがいる。ただ懺悔した人は珍しいと言えよう。

 この前後でまどは述べる。

 

考えてみますと、私はもともと無知でぐうたらで、時流に流されやすい弱い人間です(…)私のインチキぶりを世にさらすことで、私を恕していただこうと考えました。本当に慙愧しているのなら、詩作の筆も絶って、山にでもこもるところでしょうが、あとで記しますように、私の中にはかすかながら私を庇いたい思いもあって、このような虫のいい対応を考えついた次第です」(『まど・みちお全詩集』)

 

 あとがきで刮目したいのは「本気でなく、上の空でやってい」たという件りである。軍部にだまされていたなどと小賢しい弁解をしないまど・みちおは、自分は常に「上の空」の状態だったから、結果的に戦争詩を執筆したという。

 彼の「精神活動」は「上の空」で行われていたのだった。

 それでは懺悔すらも実は「上の空」なのではないかと突っ込まれても仕方がない。日本児童文学学会における「高ぶって書いたとは思え」ないという指摘は、実に的確である。高ぶるどころか「上の空」だったのだから…。

 戦前の日本は軍国主義に邁進し、戦後は安保条約反対で盛り上がって、やがてバブル経済で後先のことを考えずに栄華を極め、東日本大震災によって今度は反原発の気運が高まった。だが喉もと過ぎれば、多くの人はそれらの出来事をすっかり忘れてはいないだろうか。いつも「上の空」ではなかったか。

 戦時中に戦争に協力して戦後は反戦に転じた「すべてのことを本気でな」く行っていたというまど・みちおのある意味で驚くべき告白は、まるで日本人に一個の人格が付与されたかのようである。乱暴に言えば、そもそも「上の空」のまど・みちおが日本を代表する詩人の地位に収まったという事実が、日本人の忘却癖をシンボライズしていると言えなくもない。

 

思いださせてくれないか

 だれも わすれた

 その はじめの日のことを…」(『まど・みちお全詩集』)