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関本郁夫監督 トークショー レポート・『天使の欲望』(2)

 『恐怖女子高校』はシリーズ化されていて、まだ助監督をしながら脚本を書いていた関本郁夫監督は、このシリーズで監督デビューする話もあったという。だが結局、『女番長(スケバン) タイマン勝負』(1974)が初監督作品となった。

 

関本「見直して、(場所がいろいろと変わる)『女番長(スケバン)』がデビュー作でよかったなと。『恐怖女子高校』はどうしても学校の中の話なので、これが第一作だったらしんどかったなと思いましたね。

 『女番長(スケバン)』のときは、シナリオライターの方に天尾さんが、“関本のデビュー作だから、頑張ってくれ”と言ってくれたそうです」

 そして、1977年に『天使の欲望』を撮る。この時点で天尾完次プロデューサーは、東映の企画部長だったそうで、本作には企画として名を連ねている。

 

関本「『トラック野郎 故郷特急便』(1979)のシナリオを中島丈博 ジョーハク)さんが書かれて、ぼくは『トラック』のB班監督をしていたので、そのころに“二匹のメス的なものはないかね”と言ったら、丈博さんが“こんなの(脚本)ありますよ”って。丈博さんとは、ATGで撮ろうとしたり、いっしょにいろいろやろうとしていました。

 この作品は、わずか12日間で撮りました。夜間ロケはあったけど、仲沢半次郎さんという名カメラマンとスタッフの力ですね。よくあの条件でつくったな。若い力ってすごいバイタリティですね」

 

 80分程度でそれほど長い映画ではないが、ロケもあるので12日間はきつかったであろう。クライマックスでは、姉妹(結城しのぶ、有明祥子)が浴室で斬り合いの戦いを繰りひろげる。

 

関本「ラストの死闘は、全裸で前貼りもせずに撮るわけです。撮る前にカメラの仲沢さんと約束したのは、美学に反するからぼかしをやめようと。毛が一本でも映ったら映倫がカットですから、撮る前日に、殺陣師を用意してくれないかと言いました。それが天尾さんの耳に入った。“殺し合いのシーンだけど、芝居や! お前は殺陣師を呼んで、らくしようとするのか”と言われましたね。

 私たちで必死に殺陣を考えましてね。(撮影は)夏だけど水に濡れてるから、(女優さんは)寒くて大変。朝から一日やってて、ふと気づいたら、目の前に黒山の人だかりなんですよ。裸の女ふたりが何やってんだと。全然気づかなかった(笑)。女優さんも、私たちも集中してたんですね。

 天尾さんの“芝居や!”って言葉は、いまも頭にこびりついてますね。

 封切りのときは、石井輝男監督『暴力戦士』(1979)と二本立て。女房とふたりで劇場へ行ったら、お客さんは56人だけなんです。でも大変な評価をいただきました。映画祭で作品賞をもらいましたし、いまだに上映がつづいて、息の長い作品です。

 十何年前に見たときは(映像が)きたなかったんですけど、きょうは綺麗なプリントですね」

 

 その後、『トラック野郎』シリーズの終了後に撮った『ダンプ渡り鳥』(1981)が、関本監督は忘れられないという。

 

関本「『ダンプ渡り鳥』のときは、複雑な心境でしたね。『トラック野郎』の延長上の話ですし、東映の看板を引き受けるみたいで、いろんな思いがありました。撮っている間に愉しい思いをしたことは一回もなくて。

 (撮影で)北海道の積丹に行ったら暖冬で、2月なのに雪がない。ダンプで雪を運んだりして大変で、これが予想外の出費。予算を圧縮しなきゃいけなくて、連日どこのシーンを削るかという話をしてました。

 初号試写で天尾さんに呼ばれまして、“関本、悪いことをしたな。これ、当たらんで”ってはっきり言われました。え、まだ編集してるのにって思いましたけど(笑)。

 いまも鮮明に覚えているのが、選手名が電光掲示板に表示されるようになって当時話題だった後楽園球場で試写会をやったんです。4万人入るほどの球場が閑散としていて、ほんとにせつない思いをしましたね…」

 

 関本監督は、1983年に東映を退社し、フリーの監督として活動した。天尾プロデューサーと組むことは、なかったようである。

 

関本「天尾さんがいなければ、関本郁夫という映画監督は誕生しなかった。2年前に亡くなられてますが、いっしょに昔みたいにお酒を飲みたいという強烈な思いがありますね。私の育ての親のような方で、いままで包丁一本みたいに業界を渡ってこられたのは、天尾さんのおかげかなと思っています」

天使の欲望 (日本カルト映画全集)

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