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私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

藤子不二雄A インタビュー(1998)・『まんが道』『愛…しりそめし頃に…』(2)

藤子不二雄 書籍

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藤子・F・不二雄藤本弘)との出会いと若き日々 (2)】

 僕らのデビューは昭和27年に『小学生毎日新聞』に掲載された『天使の玉ちゃん』っていう作品なんですよ。そのときはまだ学生で、その後僕は富山新聞っていうところに入って、藤本君も会社に入ったんだけど、3日くらいで辞めて。「俺はやっぱり会社勤めは合わないから、漫画を描く。お前は新聞社に勤めろ。時期が来たら、東京に出よう」と。その間に手塚(治虫)先生の紹介で鶴書房っていう出版社で『ユートピア』(『UTOPIA 最後の世界大戦』)っていう単行本を描くことを頼まれていて、藤本君がメインで描いて、僕は日曜とか休みのときに行ってコツコツやってた。それが初めての単行本として昭和28年の夏ごろに出たのかな。そのときのペンネームは足塚不二雄なんだけど、この名前はそのときだけ。手塚先生にゃ及びもつかないが、せめてなりたや足の先ということで(笑)。『ユートピア』はいま、大変な希少本みたいです

 6月に上京して、10月には連載5本持ってました。その月にトキワ荘に入ったんだけど、徹夜に次ぐ徹夜で電気消したことがなかった。そういう生活がずっと続いていて、大みそかに連載6本と別冊2本持って、富山へ帰ったんですよ。そうしたら元日の朝から1ページも描けなくなって。これまで半年寝ないでやってきたのが実家に帰ったことで虚脱状態になったんですね。でも正月だから編集も休んでるし、田舎だから催促にも来ない。それで5日になったら全社から催促の電報が来たんです。だけど、パニックで手につかない。そのうち「原稿オクルニオヨバズ」っていう電報に変わって……。新人が連載落とすなんて、大変なことですよ。あちこちの編集部に謝りの電話をかけたんですけど、「藤子……」って言いかけると、ガチャンと切られてしまう。そのとき、トキワ荘の向かいの部屋に住んでいた、寺さんこと寺田ヒロオさんが全部穴埋めしてくれて、「あきらめないでがんばれ。田舎へ帰るのはそれからでもいいじゃないか」って言ってくれた。非常にできた人だったんですね。それに、僕らはそういうときもふたりでいたっていうのも大きかったよね。ふたりでいると笑い話にできるんですよ。「原稿描かなくてよかった」とか言ってると、わりと気が楽になって。しかも藤本君は僕と違って非常に度胸が据わってたから「いつかまた出番があるよ」って言ってくれて、すごく安心感がありましたね

 

藤子・F・不二雄とのコンビ解消 (1)】

 作業については一度も話し合ったことはなかったんですよ。ただ初めて一緒に合作したのは、昔よく幻灯を作って遊んでたんですけど、そのときが初めなんです。初めは別々に描いてたんだけど、これは一緒にやったほうが楽なんじゃないかということになって、ひとつのお話をふたりでやったんですよ。そうしたらこれは楽だって感じで、自然な形ですごくスムーズに進んで。しかも絵もその頃はふたりとも手塚調で、すごく似てた。上京した頃は1ページを半分に切って、上を僕が描いて下を藤本君が描くとかやってましたよ。合作っていうのは、『オバケのQ太郎』が最後かな。あのとき初めてキャラクターを分けて、Q太郎を藤本君が描いて正ちゃんを僕が描いて……としたんだけど、あれが最後。その後だんだん、それぞれの個性が出てきたから、名前は藤子不二雄だけど『ドラえもん』は藤本君、『忍者ハットリくん』は僕、とかってそれぞれ決めて。それ以降の作品のスタートについても、お互い一回も話したことないんです。なんか恥ずかしいというかね。あとで見て、ああこういう作品なんだって。でもぜんぜん違和感はなかったね、お互いを信頼してたから。だからお互い感想を言ったりもしない。自分が描いてるわけじゃないんだけど、自分の作品のような気がしてるからね。それをいまさら面白いっていうのは変な気がするし、それは藤本君もそうだったと思う(つづく)

 

以上、別冊宝島『ザ・マンガ家』(宝島社)より引用。 

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