【キャリアの回想】
鎌田敏夫氏は大学卒業後にシナリオ学校へ通い、脚本家の故・井手俊郎氏に弟子入りした。
鎌田「シナリオ学校に通っていたころ、みんなで飲みに行こうってときにひとり事務局へ戻ったんです。そのとき弟子の話があった。これも縁ですね。
脚本家の電車の乗り方、本屋の行き方、街の歩き方があるわけ。それを師匠に教わった。
夜、師匠と飯を食うとき、戦前の映画のこととか歌舞伎とかいろいろな話を聞いた。それがものすごく貴重だった。ぼくは(余暇には)ストリップへ行っちゃうけど、師匠は歌舞伎へ行く。で、いっしょに行って解説してもらう。「古典と思うな、現代劇と思え」と言われました。
今度(初めて)歌舞伎をやるんだけど、それも師匠に教わったからだね」
鎌田氏は『金曜日の妻たちへ』三部作(1983~1985)すべてのシナリオを手がけた。
鎌田「『金妻』は、当時下町のドラマばかりで、郊外のドラマがなかった。不倫をやるつもりはなくて、夫婦の友情ドラマをやりたいって。うちは夫婦単位で飯を食うとかあったんだけど(そういうつきあいで)何がいちばん困るかっていうと、男女になると困るなっていう発想。
でも後で不倫ものの代表選手みたいに言われて(一同笑)。だからメディアってのは、ちょっとずれてるんだよね」
1980〜90年代には『金妻』や『男女7人夏物語』(1986)、『男女7人秋物語』(1987)などヒット作がつづいた。
鎌田「『29歳のクリスマス』(1994)は再放送されて(リアルタイムでは)生まれてなかったような人にも見ましたって言われる(笑)。
昔は映画ファンだったけど、監督はスタッフの統括とかが面倒くさそうだったから。ドラマがヒットしたときは監督やらないかっていう話もあったんだけど、一度やると監督の悪口言えなくなるし(笑)」
シナリオのほか、小説も多数発表している。
鎌田「(『里見八犬伝』〈1983〉のときに)角川春樹さんにうちは本屋だから原作もないといけない、書いてくれって言われた。脚本を書いてるとこぼれてくるものがあってそれを小説にした。女性誌に連載したときは、海外へ(取材に)行かせてくれて贅沢だったな(笑)」
【創作の作法】
鎌田「キャラクターがないとつまらない。キャラクターに共感させないと、その人が生きてようと死んでようとつまらないんだ。脚本家でいちばん難しいのがそこ。時代によって何に共感できるかが変わる。それを見つけるのが脚本家の仕事の90パーセントで、いちばん肝腎。
書くまでが長い。8割の時間は考えて2割で書く。書くと速いけど、全体が見えてくるまでが難しい。原作を生かしてこっちのものも入れて、というのに時間がかかる。
シラケ世代だからって白けたものをつくっちゃいけない。逆を行かないと。一昨年から絆、絆って言ってるからって、絆のドラマをつくっちゃいけない。
面白いものをつくるためにいろんな本読んでますから。あと、あちこち行ってるから。ひたすら歩き回ってさがす。地方とか店とか、メディアの情報だけじゃずれていく。無意識、潜在的なところを見つけないと当たらない。
劇画の原作もやったことあるけど、収入がかなり違う(高い)と言われたんでやめた。脚本書かなくなっちゃうかなって思って。
CMのキャッチコピーも一行書いたら脚本一本分のお金っていうんでやめた。仕事ではストイックなんです。実生活ではストイックじゃないけど(笑)。
そういえば作詞はダメだった。大学出たからかな。知識をひとつ入れると何か抜けていくものがある。ぼくのドラマも知的なものじゃないしね。うちは農家だけど、農家のおばさんとかってどこかで知的なものをバカにしてるんだ」
【その他の発言】
鎌田「役者さんとは仲良くしたくない。私生活が判ると、使いたくなくなっちゃう。
自分も無名でいたい。飲み屋とか行っても4年くらいは身元が判らないほうがいい。無名のほうが、旅行へ行っても何をしても面白いよね」
鎌田作品を見ていると組織の中で守られて生きる人間が自分の足で歩く意識に目覚めたり、ひとりで生きる人間がかっこよく描かれたりする展開が多い。フリーの立場で生きることは、それだけ困難なのだろうか。
鎌田「この仕事は、楽天的でないと病気になっちゃう。おれは3つ厭なことがあると元気になる。2つじゃダメ、3つないと元気にならない(一同笑)。
最近絶好調なんだ。その前の何年かはうまくいかなかったんだけど。(最近は)企画書出したら、みんな通っちゃう。歌舞伎とかね」