私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一講演会 “テレビドラマと私” レポート(3)

【老いのドラマ (2)】 

 いまはみなが長生きするという問題が。プラスもあるけどマイナスも大きくなっています。核家族もすごく幸福だったのが、子どもが出てったりして変わってきましたね。他者ともう一度手を結ぶ、核家族的に孤立しちゃいけないんじゃないかと。

 『春の一族』(1993)では、古いアパートで緒形拳さんが(周囲の人に)接触したいと思うんですがみんなに断られる。その中でしつこく誰かに関わろうとして、他人同士の一族をつくっていくという話を書きました。それに付随して、新しい家族を書こうと思って『秋の一族』(1994)もやりましたね。

【俳優と監督たち】

 心残りのある、間に合わなかった俳優さんがたくさんいました。

 緒形拳さんと最後に仕事をしたのはいつだったか、名古屋の民放でした(『いくつかの夜2005)。年寄りの俳優さんがいなくなってるんで一刻も早く年を取ってくださいとお願いしたんですが、そのとき(ご自分が)癌だとご存じだったんですね。ぼくは気楽なことを言ったもんだなと…。

 親しい俳優さんも亡くなっていきますね。児玉清さんとまたやりたいと思っていて、ある時期からクイズ番組や本の番組に出られていましたけど、軽みと知性があって他の方では…。児玉さんをイメージして書いて、亡くなる一週間前にあぶないと聞いて「えっ」って。すると突然小説が書きたくなる。ぼくさえ健康を維持していれば書けるんですから。 

 他の局のシリーズでワンシーン、ツーシーン出ていただいた山崎努さんとはフジテレビの『早春スケッチブック』(1983)以来なんですが、NHKではいっしょにやったことがなかったんで『キルトの家』(2012)でお願いしました。震災を踏まえて、団地の話を書こうと思って、団地は12階は埋まっているけど5階ぐらいがいない。それで年寄りばっかりたまっちゃうという団地の話を書いてみようと。山崎さんはさすがと思いましたね。幸いまだお元気そうだから、またやりたいなと思っています。

 ぼくがいっしょにやっていた人(監督、プロデューサー)がみんな定年退職して、時間が空きました。やっぱり合う監督、合わない監督がいる。

 深町幸男さんは『あ・うん』(1980)がほんとに素晴らしくて、映画の『あ・うん』(1989)より格段によかったと思いますですね。早坂暁さん脚本の『事件』(1978)、『夢千代日記』(1981)も素晴らしかった。いまは決してお元気じゃないですが、ご自分は元気だとおっしゃってますけど。ぼくとはいちばん多いんじゃないでしょうか。ぼくとテンポが違うんですね。情景をジワーッと撮るから、シナリオをどこかで切らなきゃいけない。

 深町さんは最後のロケーションで倒れて入院しちゃって、その病院の隣がロケ場所。撮りに行くって言うからみんなで止めて、医者も責任を持てないと。それでもちゃんと撮ってくださって、また入院されてそれがいまのところ私との最後ですね。

 

【テレビにおける創作】

 テレビと自分が合わなくなってくると、仕事も少なくなって、不本意な仕事もやらなくちゃいけなくなる。だからテレビとの相性が悪くなったとき、芝居や小説へ逃げるのね。そうしないと(不本意な仕事を)断る力がなくなってくる。

 それぞれにいいところと悪いところがあって愉しかったですけど、テレビは見てくださる方の数が格段に違いますね。ちょっと狙って書けば、その狙いが気に入らないって人が出てくるのは当たり前です。テレビを見る人ってすごい数ですから、その中で物をつくるって不自然です。

 ぼくは小さな話、細かな味を書く。そういう領域を手放してしまうと、たとえば老人というような概念に縛られてしまう。狭い領域を狙っていくしか(テレビの場合は)完成度を維持するのは難しいんじゃないかな。

  ぼくは、民放の作品や小説はNHKの仕事とは違う人間じゃないかと思われるくらい違う作品を書いています。

 芝居で海外の日本人村で日本人がさらわれるって話を書いたら(『砂の上のダンス』〈1989)そんなことないって言われたけど、その少し後でイラク拉致事件がありました。

 どう生きるかってテーマは、テレビにふさわしいと思いますね。決まり文句じゃダメだけど、深く描ければと思いますですね。

 

 山田先生のテレビの仕事は、この5年くらいは11作くらいのペースで以前よりは寡作になっているが、それでも舞台や小説、エッセイもこなしておられることを考えれば、やはりこの年齢としては驚異的なエネルギーの持ち主であろう。先生も健康に気をつけてマイペースで作品を執筆していただけたら、と思う。